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資料整理を淡々としていると、新聞の切り抜きが出てきました。
『日出新聞』 第12,972号、日付を見ると、大正12年4月30日発行である。
この『日出新聞』は京都新聞の前身であることが判りました。記事はつぎのような内容でした。
@@@蘆の丸屋を尋ねて白黒原板
@@@大正時代の新聞いかがでしょうか?
@@@以下の翻刻まがいの「蘆の丸屋を尋ねて」をつくるのに
@@@半日以上かかりました。
@@@少し長い記事ですが翻刻まがいなことをしてみました。
@@@蘆の丸屋を尋ねて
Written by Gyougen
2012年5月12日(土)に京都八本山巡りの会 第2回目(主催:当山實相寺)を開催いたしました。 今回は、妙傳寺と頂妙寺を参拝しに行きました。 参加者24名とたくさんの方に参加いただき、この場を借りまして御礼申し上げます。
◇妙傳寺1477年(文明9年)、円教院日意上人によって創られたお寺です。「関西身延」とも言われるお寺で、日蓮聖人の御真骨を奉安されています。今回、御真骨堂を新しく修理されたとの事で、非常にきれいなお堂でした。日蓮聖人の御真骨を拝し、身が引き締まる想いがしました。 (*)修繕前に床板をはがしたところ、立て看板が出てきたとのことでした。
◇頂妙寺頂妙寺は下総国出身の日祝上人によって創建されたお寺です。仁王門には、天正十二年に頂妙寺日珖上人が秀吉から授かった旧地への回帰御免状の写しの木版が掲げられております。 (*) 「豊臣太閤秀吉公台命 先年安土に於ける法問以来、逼塞の由侯、早々の上洛尤候、諸事前々如く、与に仰出され候間、其の意を得らる可く候。此旨法花宗中へ申渡候、猶諸事自り申し入れられるべく候、恐々謹言 民部卿法印 玄以(花押) 七月廿日 日珖上人 玉床下」と書いてあります。
今回で、四ヶ寺参拝いたしました。次回3回目は、今年の10月頃を予定しております。また、詳しいことが決まりましたら、お知らせをいたします。参加、お待ちしております。
合掌 writer:若ボン
市民しんぶん南区版 平成24年5月15日号の送付についてというお手紙と 「ぶらり散策⑯」 「知る」「見る」みなみ 「實相寺(上鳥羽鍋ヶ淵町)」 という記事が送られてきました。
クイズもあります。奮ってご応募してください。 答えがあやふやな場合は、ぜひ散歩で「お寺」まで来てください。お待ちしています。
Written by Gyougen 松永貞徳関係書類等を整理していたら、2種類の木版画が出てきた。ちょっとしたことを調べるにも時間がかかってしまいます。老後の楽しみとして始めたことですので苦痛はありません。が、・・・ ① ①は山名貫義模 と書かれている。奥書も実物を丁寧に模している。 自賛の歌は、次のように読める。 @@@@@津由能以の知@@@@@つゆのいのち @@@@@@消るころも農@@@@@きゆるころもの @@@@@@@玉くし気@@@@@@たまくしけ @@@@@婦多ゝひう遣ぬ@@@@ふたたひうけぬ @@@@@@見能里@@@ @@@みのり @@@@@@@奈羅@@@@@@@なら @@@@@@@@南無@@@@@@なむ*山名貫義(やまな つらよし、天保7年3月1日(1836年4月16日) - 明治35年(1902年)6月11日)は、明治時代の日本画家。当時、大和絵の大家として知られた。 紀州和歌山藩の絵師山名広政の子として、江戸麹町で生まれる。幼名は大助。弟に同じく日本画家の前田貫業。はじめ住吉派の住吉弘貫に学ぶ。明治維新後、工部省、内務省、農商務省に測量技術をもって出仕する。 明治10年代になって再び画道に戻り、明治15年(1882年)の内国絵画共進会では審査員になり、明治17年(1884年)の第二回内国絵画共進会も審査員として加わり銀賞を授与される。同年創立の鑑画会では、狩野永悳、狩野友信と共に、古画の鑑定委員として当初から参加している。明治18年(1885年の皇居造営の際には、杉戸絵や襖絵などを多数手がける。 ②
②は蜷川親胤写之と書かれている。明治五年の博覧会に向けて献じられたものらしい。 * 蜷川親胤(にながわ-ちかたね)(天保2年~明治15年) 漢学者(考古家)本姓宮道蜷川氏。初名與三郎、諱親胤、後に図書。京都の人東寺の坊官蝋川子賢の息天保二年五月二十三日生れ。安政六年の以文社名簿には東寺蜷川図書と出ており明治四年の職員録には太政官少史従七位守宮道朝臣式胤蜷川とありその後文都省、内務省等に歴任している。その間奈良正倉院御倉間扉の命を奉じてその事務を鞅掌すること二回。更に東京博物館、京都博物館創設に尽力して其の功を奏し我が国美術工芸の保存発達に寄與することが多大であった。明治十年病を以て官を辞し尓来従容自適専ら古今書画什器の蒐集に専念し、その鑑識に力を致し門下の教授に当り国華の発達に多大な貢献をもたらした。明治十五年八月二十一日没。年四十八。東寺狐塚に葬る。晩年の著書「観古図説」は広く梅外にまで知られ賛美された。
Written by Gyougen |
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