正覚山実相寺の沿革

四方行正(当山第五十八世 桂流院日純上人)執筆

正覚山と号する日蓮宗の寺院。本尊は十界大曼荼羅。日像上人の弟子、大覚大僧正(*注1)妙実上人によって南北朝期に開創されたと伝えられる。寺伝によれば、南朝正平7年(1352)の夏大いに日照りしたとき、上人勅命をうけて、桂川は鍋ケ淵に於いて僧数百人を率いて請雨の御祈祷あったところ大いに験あり、南朝後村上天皇、三菩薩号と大僧正を勅賜され給う。後、北朝後光厳院より同じ綸旨を給う。本寺はその因縁によって創建されたとも伝えられる。祈雨に先だって妙実上人は日蓮大聖人の座像を作りお伺を立てられたところ三度点頭されたという。このように当寺は、開基妙実の勅願祈雨の旧跡ともいわれ、現在の本堂にある「日蓮うなずきの像」は慈雨のエピソードを伝えており、洛南における祈雨伝説と深いかかわりをもっていたことがうかがわれる。開創以後の實相寺の寺歴については明らかでないが、当寺はもと真言宗の寺院であったらしい。それは本堂に使われている丸柱や墓地から出土する旧い梵字入り卒塔婆などからも推定されることである。

(*注1) 大覚大僧正については、『京童跡追』(寛文7年刊)に、「貞治三年甲辰四月三日に寿五八ニテ寂」とあり、『山州名跡志』(正徳元年刊)『山城名跡巡行志』(宝暦4年跋)に、近衛経忠公男とあり、實相寺の伝承も同じ。『山州名跡志』の前半を引用する。「正覚山實相寺 在上鳥羽中民居西方 門東向 仏殿南向 宗旨法華 属妙覚寺 開基大覚上人 上人ハ日像ノ弟子ナリ。近衛摂政経忠公男 初真言 嵯峨大覚寺ニ住ス。日像上人宗旨弘通時 為弟子 委龍華伝」

中世末から近世初頭に於いて当寺は、妙覚寺の筆頭末寺、隠居寺になっていたが、慶長元年(1596)の太閤秀吉の千僧供養に端を発した日蓮教団の不受不施、受不施二派の分裂に際しては、妙覚寺日奥の不受不施派に連座し、弾圧を受け、約50年間回復するところとならず、現在も18代以前の歴代名等は一切不明である。(*注2)

(*注2) 妙覚寺に於いても歴代上人の表から日奥は省かれており、後人によって、その該当する箇所に、仏性院日奥上人と朱香書されている。寛永10年11月28日、幕府に提出された書上帳『上京妙覚寺諸末寺覚』には、本寺と共に受不施に転じた末寺は、同意、随順とあり、転じなかったものは、違背、于今不参と記録されているが、實相寺は「違背」と記されている。

のち妙覚寺が身延山支配の受布施派に転向したことによって回復の糸口を見つけた。『京都御役所向大概覚書』に「正徳六年申年、鳥羽實相寺本堂、為修復、相撲為取申度之旨相願候、右寺は朝鮮人来聴之節、休息所罷成候ニ付、願之通同年日数七日赦免」とあり、江戸中期には当寺が朝鮮人来聘使の休息所とされていたことが知られる。江戸時代には中本山格、寺中四か寺をえるまでになったが、明治8年、それまでに残っていた寺中の一か寺も水害で消失した。

『日蓮宗寺院大鑑』池上本門寺(昭和56年刊)から歴代等を抜粋しておく。

◇当山歴代上人

歴代 歴代上人名 遷化年
開山 大覚妙実 貞治三年(1364年4月3日)68歳
二世~十八世まで不明
一九世 宝運院日住
二十世 宗達院日理
二一世 本立院日用
二二世 泰円院
二三世 安住院日近 寛文九(1669年10月11日)
二五世 日命
二六世 法光院日勢
二七世 観成院日賢 宝永一(1704年7月9日)
二八世 寛識院日任 正徳四(1714年7月29日)
二九世 亮通院日融 享保八(1723年5月17日)
三〇世 照道院日円 元文五(1740年10月15日)
三一世 玄妙院日恵
三二世 明静院日教 宝暦七(1757年4月17日)
三三世 遠光院日雅 寛延三(1750年8月28日)
三四世 教弘院日栄 宝暦四(1754年2月8日)
三五世 秀恩院日寿
三六世 妙芽院日桓 明和八(1771年6月)
三七世 真如院日栄
三八世 体円院日通 天明八(1788年1月16日)
三九世 霊如院日誠 安永九(1780年6月30日)
四〇世 真如院日訊 寛政八(1796年)69歳
四一世 辨妙院日義
四二世 日進
四三世 智詳院日孝
四四世 大慈院日敬
四五世 専応院日尭
四六世 本示院日恩
四七世 本顕院日示
四八世 本誓院日門
四九世 本城院日寿
五〇世 本軌院日実 安政六(1859年4月21日)
五一世 本行院日明 明治四〇(1907年6月2日)
五二世 竜顕院日進 明治七(1874年5月20日)
五三世 竜精院日山 明治二二(1889年1月)
五四世 唱顕院日随 明治二二(1889年9月7日)
五五世 行住院日好 明治二七(1894年5月22日)49歳
五六世 恭心院日邦 昭和一六(1941年5月27日)74歳
五七世 慈航院日敬 昭和三三(1958年12月30日)78歳
五八世 桂流院日純 平成一一(1999年4月20日)82歳

実相寺は江戸時代に於いては、貞門俳譜の鼻祖松永貞徳ゆかりの寺として有名であったが、それは貞徳の兄、不受不施派の総帥日奥の後を追って対馬に渡り、その地で没した教行院日陽が当寺の住持であった関係から、貞徳没後はその墓が本寺におかれたことによる。

またその旧跡芦の丸屋が本寺に移されたと古い俳書は伝えるが、それらしきものはなく、実はその材木等で本寺の復興を図ったものであるらしい。現在の本堂の根太には隅切をした五寸柱が使われている。本堂は130年前に改築されているので、その前の本堂はこの隅切り五寸柱の建物であったと推定される。芦の丸屋は和歌俳譜の会所でもあったもので相当に大きく、江戸時代より伝承されてきた所謂芦の丸屋とは異なっているだろう。

江戸時代より存在し、何回か改築されてきた芦の丸屋は、ある尼によって建てられ、俳人等が住まい、江戸時代には貞徳が隠棲(*注3)したところとして誤伝され重宝がられた茶室風の芦ぶき入り母家造りであるが、戦後、歴史的事実が明らかにされるとともに重んぜられなくなり、またその維持に力を尽した俳社等もなくなり、昭和9年室戸台風で倒壊して市の補助で再建されたが、その建物も昭和36年第二室戸台風で再び半壊のまま再建も見込みがなく、昭和63年倒壊し現在に至っている。

(*注3) 安永9年刊の『都名所図会』に「蘆丸屋、本堂の巽にあり、貞徳翁閑居し給ひし所なり」とある。絵図をみると、旧千本街道の西側に立石がある。これは明治以後も残っていた「松永貞徳あしのまろや跡」の立石であろう。そこを折れて図子に入ると寺門があり、實相寺本堂の左に低い石垣の上に、多分、貞徳、昌三、貞如と思われる三基の墓があって、貞徳翁塚とある。その前に芦丸屋がみえる。寺の背後には天神川が流れており、比較的正確に描かれているように思われる。

柿園の建物の一部が菩提寺である実相寺に移されたのは確かなことであると思われるが、これまでのすべての研究、実地探訪はこの茶室風の建物を柿園にあった建物ととっている。現在、礎石のみであるが、この最も詳しい記録は、『茶道』第77号(昭和9年6月下旬号)に載る佐々木三味「貞徳の芦丸屋」(席めぐり36)である。三畳と四畳半の茶室と露地の平面図、席立面図および写真を載せて構造が詳述されている。この当時住居していたのは、俳人樗庵太田米華宗匠とみえる。

◇寺宝関係の資料

日助書状(軸物) 点頭宗祖尊像(木像) 十界絵曼荼羅 日隆、日延本尊等の日蓮宗関係資料、他は松永貞徳関係のものが多い。
一、松永貞徳画像 一軸(宮川正由筆)
一、 同 木像一体
一、 同 書簡一通
一、 同 刊行「妙法蓮華経」(七巻本) 二本
一、広沢長好詠草切(貞徳を實相寺に葬ったことを誌す)
一、柿園、歌仙、吟花廊の三額の模写(朱で透写しにしたもの)
一、日野資枝の和歌 一軸(現存の「鏡の井」を詠んだもの)
一、松永貞徳筆「白氏楽府」 一巻
一、芦丸屋古設計図(二枚あり、途中で建て直したか)
一、松永貞徳和歌短冊 二枚
一、松永貞徳著『俳譜御傘』 五冊

◇主な墓碑・記念碑

一、逍遊軒貞徳居士
一、松永昌三之墓(分骨)
一、一嚢軒貞如居士
一、力堂貞眠之墓
一、春澄軒貞悟之墓
一、三宅嘯山先生之碣
一、板碑(慶長2年一結講衆逆修)
一、鐘楼、元禄9年(1696)の建立。鐘銘、
山城国上鳥羽/正覚山實相寺/元禄九丙子
四月八日営之 日賢(花押)

◇行事

信行会 毎月第二土曜日
孟蘭盆施餓鬼会 8月16日
御会式 11月10日
春・秋彼岸会(彼岸中日諷誦)
祠堂施餓鬼会(春彼岸結願)
歳末報恩会と除夜の鐘撞 12月31日

この後に、「松永貞徳筆 白楽天新楽府 一軸」等の写真が掲載されているが、今は省略する。
(『近世初期文芸』第10号 平成5年12月20日発行 に掲載)
(**)HPに掲載するにあたり、一部修正を加えております。