@「通信」の語のもつ意味と言うことで、少し長くはなりますが『朝鮮通信使』ー江戸時代日本の誠信外交ー仲尾 宏著(岩波新書)より引用してみる。
@江戸時代の二〇〇年以上にわたって、双方の国家と民族はおおよそのところ、お互いが対等で信義を交わしあう相手であることを認め、武力によって事をあらだてないという了解が存在していた。それは本書のテーマである「朝鮮通信使」の往来があったからである。
@ここで言う「通信」とは、お互いが信(よしみ)を通わしあう、という意味である。朝鮮王朝では、この外交使節のことを「日本通信使」と呼んだ。中国へ赴く使節が「燕行使」(北京には燕京という雅号がある)、または「事大使」(大国につかえる)と呼ばれたことと対比して、その「通信」の語のもつ意味の重要性がよくわかる。
@当時、日本では「通信使」のほか「信使」「来聘使」「聘使」「韓使」「朝鮮国使」などとさま、ざまに呼ばれていた。また、いくつかの記録には、この通信使のことを「朝貢使」であるとし、その意味をこめた「来朝」という言葉も使われていた。
@しかし、徳川幕府はこの外交使節を「朝貢使」とはみなしていなかった。それは、両国の王権を代表していた朝鮮国王と徳川将軍の間に交わされた十二回の国書や幕閣の老中と朝鮮国の外交担当者である礼曹参判との間に交わされた書簡の文言を見れば、双方が少なくとも建前として、互いが対等で信義を通わす相手として認識していたことは明らかである。
@「朝鮮通信使」が實相寺を休憩場所として衣帯・衣服を着替え、京の都へ入っていったことが近年朝鮮側の資料から判ってきた。
@近年判ってきた資料から江戸時代12回の朝鮮通信使の内5回は實相寺に立ち寄っていた。(實相寺沿革に記載)
@昨年、大和郡山市の「柳沢文庫」で開催された「秋季特別展ー柳沢信鴻(のぶとき)とその時代」をきっかけに、第10次の朝鮮通信使も實相寺に立ち寄っていることが確実になってきた。
@私が目にした實相寺に関わる「朝鮮通信使関係資料・文書等」を載せていきます。
@時間が経つと共にこのコーナの資料が増えることを願っております。
No | 題 名 | 筆 者 等 | 西 暦 | 年 号 | 文書カテゴリ | その他 |
1 | 扶桑録(下) | 南 壷谷・著 若松 實・譯 | 1655年 | 明暦元年 | 第六次朝鮮通信使の記録 | 8頁 |
2 | 東槎録 | 洪 禹載・著 若松 實・譯 | 1688年 | 天和二年 | 第七次朝鮮通信使の記録 | 56頁 |
3 | 東槎日記 | 任 守幹・著 若松 實・譯 | 1711年 | 正徳元年 | 第八次朝鮮通信使の記録 | 67頁 |
4 | 京都御役所向大概覚書 | 1717年頃 | 享保二年 | 近世京都研究の史料 | ||
5 | 海游録 | 申 維翰・著 姜 在彦・訳注 | 1719年 | 享保四年 | 第九次朝鮮通信使の記録 | 136頁 |
6 | 柳沢文庫秋季特別展 | 2011年 | 平成23年 | 「柳澤信鴻とその時代」 | ||
7 | 實相寺文書 | 1747年 | 延享四年 | 客殿柱の修理願い | ||
8 | 實相寺文書 | 1747年 | 延享四年 | 朝鮮通信使来朝につき迎え入用書 | ||
9 | 幽蘭台年録 | 柳沢信鴻 | 1748年 | 延享五年 | 郡山藩主の公的記録 | |
10 | 奉使日本時聞見録 | 曹 蘭谷・著 若松 實・譯 | 1748年 | 寛延元年 | 第十次朝鮮通信使の記録 | 101頁→ |
11 | 京都の歴史 | 京都町触集成 | 1762年 | 宝暦12年 | 修復等の入札 | 291頁 |
12 | 海槎日記 | 趙 曮・著 若松 實・譯 | 1764年 | 明和元年 | 第11次朝鮮通信使の記録 | 147頁 |