–第十次(寛延元年)朝鮮通信使の記録

曹 蘭谷・著   若松 實・譯
奉使日本時聞見録   江戸時代第十次(寛延元年)朝鮮通信使の記録

作成年(西暦)  1748年
年号 寛延元年
文章カテゴリ  江戸時代第十次(寛延元年)朝鮮通信使の記録
執筆者 曹 蘭谷・著
宛先
備考 若松 實・譯(発行所:日朝協会愛知県連合会)

一〇三頁
二日(乙酉)遅くに晴れた。日が高くなってから出発した。永井近江守が杉重を送り支站官が江戸の命で鮮魚と酒を呈上した。一里余り進むと、小船十数隻が小旗を挿して水が浅い所に点点と留まって、前路を指示した。
淀浦に至ると、金鏤の諸船が順次来て留まり、日が晝楼を照らし風が彩色した帳を巻き上げて、見るに正しく此れは高台の観覧席である。
淀浦は山城州に属し、州域は河に臨み、城壁上に低い垣を設けず行閣,板壁を巡らし、白い土を新たに塗って、所々に穴を開けたのは我が国の城の構造の如くである。三ー四層の望楼が所々に聳えていて、湖水を引き入れて城を取り巻いており広さが百余歩である。
(略)
国書を奉じて上陸したが、此処からは船を捨てて陸路を進む。大きな橋を渡ると此処が正しく駅亭であり、州城と相対していて甚だ景勝の地である。館所内の諸道具は凡てが水路で通って来た站に於けると同じであるが、正使の館所に絵を描いた一瓶に蘭と菊花が生けられており、皆最盛期の如くで、誠に奇異なる見物である。其の州の太守稲葉丹後守が人を送って慰問して杉重を呈上したが、姓名は越正甫であり、食禄は一萬三千石であると言う。
前人の日記を参照するに、対馬島の人が此処に至ると待機した馬に先ず其の荷物を運ばせ、使臣一行の人馬は不足する慮れが有ると言う。
午後に島主は先に出発したが、一行に準備された騎馬・荷物馬は果たして前の如き弊害が有るので、三使臣が命じて行具を徹して出発しない意を示すと、対馬島の裁判達が慌てて走り回って足りない数を捻り出し、三使臣が初めて出発するようにした。
此処から倭京までは三里で、即ち倭皇が居る所であり西京と呼ぶ。三使臣と員役は例によって道袍と帽子を着けて城に入ろうとしたが前例を見ると其のようである。遂に着替えて進んだが、三里の間は道を均して平坦であり奇麗なことが砥石のようで一片の瀬戸物の欠けら縄の切れ端の塵も残ってはいない。
左右に竹の欄干を新たに作って置いて見物人が並列する境界と為し、また人家が梢まばらな所は桟敷を設けて上がって見物する者がまた続いており、時々稲田が有って新芽が芽生えていた。溝は水が深くて、小船が海に通行していて、時に村の中での緑陰の下に船を留めており、また一つの景色である。
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第10次朝鮮通信使の記録

2012.07.25 住職筆

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