柳沢文庫秋季特別展解説資料

柳沢文庫秋季特別展

柳澤信鴻(のぶとき)とその時代
開催期間2011年10月1日(土)~12月15日(木)
(財)郡山域史跡柳沢文庫保存会
〒639-1011 大和郡山市城内町2-18
TEL0743-58-2171
http://www.mahoroba.ne.jp/~yngbunko/

ごあいさつ
平成23年度秋季特別展では、柳澤信鴻(のぶとき、伊信〈これのぶ〉、享保9年<1724>~寛政4年<1792>)を文人大名としてだけでなく郡山藩主として史料に基づき位置づけるとともに、信鴻の生きた18世紀後半の社会について郡山藩領や大和国を中心に紹介することを目的とします。
本展示では信鴻の藩主としての事績を紹介します(藩主時代は延享2年<1745>~安永2年<1773>)。信鴻は、和歌・俳句、絵画など様々な文芸に秀で、観劇好きでもあった文人大名としてしられています。一方、信鴻の郡山藩主としての事績についてはあまり知られていません。しかし信鴻は朝鮮通信使を郡山藩京屋敷近くの本圀寺(ほんこくじ)で接待する役にあたり、桜町院の葬祭の警固として京に詰めるなど公務面でも活躍した大名であり、展示資料を通じてその実像を明らかにします。
信鴻が藩政にあたった時期は、社会の大きな転換期とされる宝暦・明和期(1751~1772年)でした。洪水・干魃などにともなう不作で飢饉が頻発するなか、財政難に苦しむ大名は対応に苦慮しました。
大和の各地同様に郡山でも一揆が勃発するなど社会の動揺が進む一方、郡山城下では紺屋町(こんやまち)で株仲間が結成され、春岳院や町人によってかつての郡山城主豊臣秀長を祀る大納言塚の修復が行われるなど、様々な面で新しい動きが確認できます。本展示では、こうした社会の新しい動きを紹介するとともに、信鴻や家臣達がどのように対応しようとしたのかという点にも踏み込んで明らかにします。
財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会

1.朝鮮通信使の接待

江戸時代、朝鮮国王は江戸幕府の主である大御所および将軍に修好や慶賀の名目で使節を派遣しました。これを朝鮮通信使といいます。今回は徳川家重の将軍就任を祝うために通信使が遣わされました。延享5年(1748)、信鴻は、幕命によって京屋敷近くの本圀寺(ほんこくじ)に宿泊する使節の接待にあたりました。通信使はやがて京都を出発し、郡山藩領の近江国醒ヶ井を経由して江戸へと向かいました。なお朝鮮通信使の一人は、柳澤信鴻について「為人、清秀・挙正・敬謹」(ひととなり、せいしゅうにしてきょせい・けいきん)と評し、信鴻の清楚で礼儀正しく謙虚な様子を記録しています(軍官洪景海「随槎日録」)。

展示品2「幽蘭台年録」(朝鮮人饗応一件 下)延享5年(1748)5月2日条
「幽蘭台年録」とは、柳澤信鴻の公的記録(全157冊)です。これは、祖父柳澤吉保の「楽只堂年録」、父吉里の「福寿堂年録」に次ぐ量になります。延享2年(1745)10月から安永2年(1773)まで、つまり信鴻の家督継承から隠居に至るまでの時期を収めます。信鴻の事績の中で通信使の接待は特に大事な行事と認識されていたようで、特別に「朝鮮人饗応一件」と書かれたものが上下2巻にまとめられています。展示品1は延享4年に信鴻が通信使の接待を命じられた場面から始まります。展示品2は京都本圀寺を訪れた朝鮮通信使に信鴻の家老平岡里普が歓迎の言葉を述べた場面などが書かれています。

展示品3
「松平美濃守日誌」延享5年(1748)5月朔・2日条

「松平美濃守日誌」は、柳澤信鴻自筆の日記です。収録期間は、元文3年(1738)より明和4年(1767)までで、延享2年(1745)に家督を継承する以前、いわゆる若殿時代から安永2年(1773)に隠居する数年前までの時期を収めます。信鴻が延享5年5月2日に通信使を接待したスケジュールだけでなく、本圀寺で接待する前日に通信使への礼儀作法(「揖礼」(ゆうれい)を練習している様子も記されています。

参考 パネル展示
「通信使淀城下着到図」延享5年(1748)(渡辺辰江氏所蔵、京都市歴史資料館寄託)
延享5年(1748)、大坂から船で淀に到着した通信使の行列が淀城へ向かう様子を描いています。川御座船から絵図中央の唐人雁木(とうじんがんぎ 朝鮮通信使が上陸する桟橋)に接岸し、城下をまわって淀城に入りました。筆者は、淀藩士渡辺善右衛門守業(元禄14年<1701>~宝暦12年<1762>)です。渡辺家の当主は代々善右衛門を称し、淀藩主稲葉家の家臣でした。善右衛門は大変筆まめな人物で、多数の随筆を残しました。延享5年の通信使来航に際しては、通信使饗応役を勤め、その見聞記は詳細を極めます。

「朝鮮人来聘記」(渡辺辰江氏所蔵、京都市歴史資料館寄託)
淀藩士渡辺善右衛門が、延享5年の朝鮮通信使の饗応役にあたった際の応接準備の過程を記したものです。淀藩が準備に勤しんでいる様子が描写されていますが、郡山藩など饗応に関わった他藩の動向も載せています。郡山藩は京都での接待のために「ぶた百疋」を購入しようと長崎へ向かいました。淀藩も豚10匹が必要であると書かれ、長崎で入手を計ったと考えられます。このように通信使に饗された料理の中には豚が含まれ、材料は主に長崎から調達されました。

「朝鮮人来聘附図」(渡辺辰江氏所蔵、京都大学文学研究科図書館所蔵謄写本)
淀藩士渡辺善右衛門が描いた、朝鮮通信使の行列図の写です。パネル展示の箇所は、朝鮮国王から大御所徳川吉宗・将軍徳川家重にあてた国書を携えた使者の行列、通信使の正使(洪啓禧)・副使(南泰耆)の行列です。

「増補再版京大絵図」(京都市歴史資料館所蔵)
林吉永の刊行による、木版手彩色の京都の絵図です。絵図中には「寛保元」年(1741)の作とありますが、内容より延享3年(1746)頃の刊行とみられ、信鴻の藩主時代と重なります。この2年後に信鴻は通信使を本圀寺(ほんこくじ、現在は京都府京都市山科区)で接待します。絵図によると、壬生寺(みぶでら)からみて南東に郡山藩の京都屋敷と本圀寺が所在しています。

2.桜町院の葬祭の警固

郡山藩主は代々京都の警固をその重要な職務としています。天皇や院が崩御した際には葬祭において、郡山藩は葬祭の警固を勤めるならわしでした。
寛延3年(1750)、天皇在位中に大嘗祭や新嘗祭など重要な朝廷儀礼を復活させた桜町院が崩御しました。信鴻は、京都の火の番に加えて葬儀や中陰仏事が行われる泉涌寺(せんにゅうじ 京都市東山区)や般舟院(はんじゅいん 京都市上京区)の警固の控(予備要員)も勤めました。

展示品4「幽蘭台年録」寛延3年(1750)5月12日条

寛延3年4月、桜町院の崩御に際して、泉涌寺と般舟院の警固の扣(控 ひかえ)、京都火の番を信鴻が勤めるようにとの幕命を京都所司代松平資訓(すけくに)が命じた史料です。信鴻はこの年参勤交代で江戸に向かう予定で、信鴻と入れ替わりに国元に戻る予定であった膳所藩主本多康恒に役を引き継ぐ(国元に留まり、京都の火の番の勤務のみを継続しました)。

柳沢信鴻とその時代展資料

2012.09.10 住職筆

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