第十次朝鮮通信使に関する文書等を古文書館に載せました。
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江戸時代第十次(寛延元年)朝鮮通信使に関して、文献でおってみると・・・
1.延享4年(1747)正月3日 建築願い 實相寺文書 宛先 京都奉行所 概要 図中の朱で示した玄関の柱が痛んでおります。つきましてはこれを修理したく、許可をお願いします。客殿の柱が根腐りしており、これを修理したい。
2.延享4年(1747)6月15日 實相寺文書 御尋ニ付以口上書申上候(朝鮮通信使来朝につき迎え入用書)宛先 小堀十左衛門 概要 朝鮮通信使が来朝するに当たって、小堀十左衛門から實相寺に準備の命令が下された。この文章は、實相寺が使節団を迎えるにあたって準備をしたものを一覧にし、小堀十左衛門に返信したものである。
3.延享5年(1748)2月12日 第10次朝鮮通信使 釜山出発(『奉使日本時聞見録』 曹 蘭谷・著 若松 實・譯 江戸時代第十次(寛延元年)朝鮮通信使の記録)
4.延享5年(1748)5月1日 平方へ到着(『奉使日本時聞見録』)
柳澤 信鴻=松平美濃守
6.延享5年(1748)5月朔日 本圀寺で接待する(5月2日)前日に通信使への礼儀作法(「揖礼」(ゆうれい)を練習している様子も記されています。(「松平美濃守日誌」)
7.延享5年(1748)5月2日 平方発→淀浦→陸路→倭京→本圀寺宿泊(『奉使日本時聞見録』)
8.延享5年(1748)5月2日 信鴻が通信使を接待したスケジュールを記す。(「松平美濃守日誌」)
9.延享5年(1748)5月7日条「一、鳥羽実相寺御役方へ引渡し、滞りなく済む、尤此段牧野備後守貞通・町奉行百日目付両御代官へ留守居役の者を遣ハして右の趣を届く」『幽蘭台年録』
『奉使日本時聞見録』に見える「此処から倭京までは三里で、即ち倭皇が居る所であり西京と呼ぶ。三使臣と員役は例によって道袍と帽子を着けて城に入ろうとしたが前例を見ると其のようである。遂に着替えて進んだが、三里の間は道を均して平坦であり奇麗なことが砥石のようで一片の瀬戸物の欠けら縄の切れ端の塵も残ってはいない。」
ここで「=遂に着替えて」實相寺に立ち寄っているのだろう。
Written by Gyougen