雑誌『時の川柳』

雑誌『時の川柳』 六月号が送られてきました。表紙は、實相寺の薬医門(山門)です。

この雑誌の24~25頁に「教養の文学史 貞門派 松永貞徳 --菩提寺・實相寺--」 平山繁夫氏の文が記載されているので載せてみる。(雑誌は實相寺にあります)

時の川柳表紙

時の川柳表紙

教養の文学史
@@貞門派
@@@@松永貞徳
@@@@@@--菩提寺・実相寺--
@@@@@@@@@@平 山 繁 夫

さくらの開花も近い某日、貞門派の宗匠である松永貞徳の墓所を求めて京都へ向った。いつものように妻の運転で、中国道から名神高速道に入ったが、走行する車もまばらで春がすみに曇る視界は春陽に光る新葉を背景に開花も間近い櫻の花が、ぽつんぽつんと白く点在し、まるで水玉模様の織物を敷きつめた風韻がある。どこかで春霞を裂いて鶯が啼いた。花ぐもりの真下を一直線に高速道路がのびる。運転している妻が「春ですね」と流れる刻を惜しむかのように眩いた。

車は京都の市街に入り、上鳥羽にある寺院に到着した。時計をみると十時三十分、自宅を出て一時間程である。

実相寺は、上鳥羽の西側に位置し、開基は大覚上人、日蓮宗で妙覚寺の末寺で、本尊は十界曼荼羅である。

古書によれば、南朝正平七年夏、勅命を受け、桂川の鍋ヶ淵に於いて僧数百人を率いて、雨乞いの祈祷をしたところ、待望の雨が降りだし、その後、勅願祈雨の旧跡といわれている。寺の存在、松永貞徳の墓所を古文書に次のように書かれている。

○『山州名跡』巻一 正徳元年刊(抜粋)
--略--「正覚山実相寺在リ上鳥羽ノ中民居ノ西方ガワ二門東向佛殿南向 宗旨 法華属ス妙覚寺   --後略--
○俳講師貞徳力墓 在リ堂ノ前東向二
塔銘 逍遊軒明心居士 承應元年十一月十二日
貞徳傳 洛陽人也。-後略-

中世記末から近世初頭にかけ、妙覚寺の筆頭末寺で隠居寺になっていた。

妙覚寺は上京区にあり、日蓮宗の本山である。当時は、織田信長の宿舎で、天正十年の本能寺の変の際、信長の嫡男織田信忠は妙覚寺を宿舎としていた。光秀の謀反を知った信忠は出陣したが果せず自害する。その時、妙覚寺も焼失した。その後寺は再建、天正十九年二月四日、伊達政宗上洛、妙覚寺に入り、千利休の接待を受ける。これより十四日後の天正十九年二月二十八日暁闇、秀吉の怒りに触れた利休は聚楽第屋敷において切腹した。享年七十歳。

寺の山門はもと聚楽第の遺構といわれている。
また実相寺は、朝鮮通信使の休憩所となっていた。任守幹の書いた正徳元年の朝鮮通信使の記録『東槎日記』を抜粋してみる。

村里は甚だ賑やかで平原広野の田畑の間には溝が互いに連なっていて皆小舟が通じ、里芋畑は果てしなく茂っていた。村家では大部分竹を植えて簾を作り店舗の間には橘柚が堆積していた。
一里進んで東方を望見すると、伏見城が山の麓の林の間に見え隠れして映じていた。此れは即ち秀吉の要塞であった。実相寺に着いて公服に着替えて倭京(京都)に入った。
町の道を通り過ぎると左側に東□寺が在って極めて雄壮であり、また五層櫻が聳えて天に立ち上っていた。-後略-

正徳元年頃といえば、西暦1696年で元禄九年で松尾芭蕉が没して、二年後、それから六年後に赤穂浪士の討ち入りがあり、その頃の京都の風趣が想像され興味深い。

妻と境内の写真を撮っていると、お若い住職が声をかけて下さった。寺院のこと、貞徳のことをお聞きしていると、寺内へ誘われ、熱いお茶をいただいた。少し疲れた老躯に一服のお茶はうまかった。沢山の資料をいただき、その上、貞徳の墓へ案内して下さり、何と言ってよいのか恐縮した。

大小の墓碑が立ち並ぶなかに、一際目立つ塔に”逍遊軒明心居士”承應二年十一月十二日卒と印刻されていた。(八十三歳没)その右に住職であった兄の墓碑があった。 * (注)その右には、息子昌三(尺五)の墓碑である

別れ際に交換した名刺には、日蓮宗 正覚山実相寺副住職 四方行紀とあった。

松永貞徳は、父連歌師永種、母は藤原惺窩の姉。松永久秀の孫ともいわれ、元亀二年に出生。文化的境遇のなかで育った。生れば京都で連歌師里村紹巴から連歌、細川幽斎らから和歌、歌学を学び、二十歳には秀吉の右筆となった。然し彼の本領は和学研究者であるため、俳諧のその業績を知られているのは、四十歳前後のものであるといわれている。

俳諧は中世に流行った連歌から派生したものであるが、その根本にあるのは、高踏化した連歌からの脱出であった。例え文芸価値が低くとも、連歌以外の世界を構築することにあった。形式、用語、自由、平明である事を第一義とした。祖といわれるのは山崎宗鑑である。『新選犬筑波集』は、宗鑑の編である。

山崎宗鑑や荒木田守武などによる俳諧は、自由奔放な滑稽を軸としていたが、以後の俳諧の地ならしをしたのが貞徳である。貞徳は老年になるほど富裕となり、前述のように和学、和歌、連歌が主で、俳諧の活動はかなり後れている。古典的教養も豊かで、温厚な性格をもち人望を集めた。

貞徳の一門を貞門派と言い、弟子は野々立甫、安原貞室、北村季吟らで全国的な大きな勢力となった。作風は想よりも形、即ち言語の酒落を重視したが、内容的に考えようとする門人もあった。然し貞徳は連歌の式目に準じて俳諧の式目を制定したことは、大きな功績である。だが、初期の貞門より内容的な俳譜となり、貞門の式目に窮屈さを感じた談林派からは、貞門の作風は古風といわれるようになった。

ともあれ、貞徳は俳諧集『犬子(えのこ)集』貞徳の俳諧式目集『御傘(ごさん)』もあり、俳諧をわかり易く理解させ全国に普及させたが、俳諧を和歌、連歌より下級であるとした考えから抜け出せなかった。そのため俳諧の詠みぶりは、保守的微温的となり堕落していくのである。

この事は、現代川柳に関わる屈辱的な思想を胚胎していると言えるだろう。

花より団子やありて帰雁(かえるかり) 貞徳
順礼の棒ばかり行く夏野かな 重頼
これはこれはとばかり花の吉野山 貞室

このように、刻の流れの如く貞門から談林へ談林から蕉門へ、そして天明の俳諧から幕末の俳諧へと続いていく。

教養の文学史

教養の文学史

 

Written by Gyougen

コメントはクローズされています.