『車石・車道通信』第11号

 10月19日〔土〕本日、車石・車道研究会のフィールドワークで、会員の方が20名ほど来寺されました。
「實相寺の縁起」と「朝鮮通信使」および「松永貞徳」について30分ほどお話をしました。

『車石・車道通信』第11号にて当日のことが詳しくレポートされていましたので、ここに掲載します。

車石・車道通信 2013(平成25)年10月23日

車石・車道通信

 第8回フィールドワークin鳥羽街道(Ⅱ)を終えて

 参加者の駒井さんから、翌日に参加記をいただきました。紹介させていただきます。(なお、※部分は、編者注です)

第8回 車石・車道フィールドワークin鳥羽街道(2)に参加して

10月19日(土)に、第8回車石・車道フィールドワークin鳥羽街道(2)が開催されました。今回は、城州鳥羽街道絵図」をもとに鳥羽街道を歩きました。

心配していた昨日からの雨も上がり、フィールドワークとしては、暑くもなく、寒くもなくちょうどよい天候となりました。ちなみに、過去7回のフィールドワークでは、一度も雨はなかったそうです。

スタートは、唐橋の羅城門(芥川龍之介の小説は羅生門です)です。

城南宮宮司烏羽重宏氏が2年前の伏見学講座(※2011/10/22)で紹介された「洛中洛外図扉風」には、東寺の五重塔の前を引き上る牛車が描かれています。車道が人馬道より一段低くなっている所を牛車が通っている、このあたりの様子が描かれています。 残念ながら、この洛中洛外図屏風は、現在の所有者は不明となってしまいました。

鳥羽街道(旧千本通)を南に下がっていくと、実光寺横の木下さん宅にある車石を見ることができます。木下さんは、「工事の際に出てきた車石をもらったので、よそから運びこんだものではなく、実際に鳥羽街道で使われていました。」とお話されました。鳥羽街道に残っている車石の確認作業をされており、他でも見ることができる車石の場所を教えていただきました。

(※山嵜廣 前会長からの問い合わせがあったのを機に、木下泰宏氏は、1996年4月に鳥羽街道沿いの車石を調査撮影し、アルバム〈4部作成〉にまとめられました。そのアルバムの一冊が京都都市歴史資料館に寄贈されています<閲覧可〉。)

次は、上鳥羽小学校の車石です。ここの車石は、長大なものと小振りなものがありました。小学校の先生の協力で、敷地の中まで入らせていただき、間近に見ることができました。

(※上鳥羽小の車石は、学校の前に架けられていた中ノ橋の橋台車石の一部とのこと〈木下さんのお話〉。

小学校からもう少し南に行くと、古くからある上鳥羽の集落の中ほどに実相寺があります。ここでは、地面を掘って据え付けるのではなく、並べた車石の回りに土を置くことで、当時の様子がよくわかるように復元されています。
(※2012.9復元、「車石通信」No.9およびフィールドワーク冊子参照)

来年は、ぜひみなさんも、参加してみません。きっと発見がありますよ。

今回のフィールドワークのコース(見学箇所および冊子の補足)
城州鳥羽街道絵図(宝永7年〈1710〉)をもとに

① 羅城門(九条通り車道)御土居の跡や御土居が途切れる中央信用金庫前、九条通りの車道・車道を引き上る牛車の絵、朱雀川(鍋取川)にかかっていた石橋の欄干(?)など

② 羅城門→五丁橋
羅城門前から五丁橋までの鳥羽街道は、東側に堀川、酉側に鍋取川が流れていました。昭和初期までの堀川筋は、九条通りで西に曲がり、鳥羽街道に沿って南下していましたが、その後の改修工事で、九条通からまっすぐ南下して鴨川に流れ込むようになりました。その堀川の廃川路を鳥羽街道の西側を流れていた鍋取川が引き継ぎました。九条通以北の鍋取川はすでに昭和36年に暗渠になりましたが、九条通以内は、平成元年に暗渠化され遊歩道となりました(平野圭祐『京都水ものがたり』参照)。

羅城門から五丁橋までの途中に、十条通があります。これは、明治37年に、それまでの吉祥院天満宮への参道を拡幅し、東九条村とつないだもので、鳥羽道、鳥羽通りなどと呼ばれました。京阪電車の鳥羽街道駅は、この鳥羽へ通じる場所ということで駅名がつけられたようです(京都地名研究会編拝『京都の地名検証』参照)

③ 実光寺,民家車石

④ 上鳥羽小学校車石

⑤ 実相寺,実相寺復元車道
境内の復元車道と俳諧師松永貞徳・その子昌三のお墓を見学の後、本堂でご住職の四方行元氏から、お話をうかがいました。

車道の復元と朝鮮通信使と車留については、フィールドワーク冊子と重複するので省略し、実相寺の縁起と通信使の立ち寄り回数などについて話されました。

江戸時代、朝鮮国王は江戸幕府の主である大御所および将軍に修好や慶賀の名目で使節(朝鮮通信使)を12回にわたって派遣しました。そのうちの5回は、朝鮮側の資料(「海游録」、「扶桑録」など)で、実相寺に立ち寄っていることがはっきりしています。

平成23年、大和郡山市の「柳沢文庫」で開催された「秋季特別展-柳沢信鴻(のぶとき)とその時代」をきっかけに、第10次の朝鮮通信使(延享5年〈1748〉)も実相弄に立ち寄っていることが確実になってきました。延享5年大和郡山の藩主信鴻は、幕命によって通信使の接待にあたりました。その柳沢信鴻の公式記録『幽蘭台年記』に、
「一、鳥羽実相寺見分の事、牧野備後守貞通へ聞合せし上にて今朝往き見分し済む」
「一、鳥羽実相寺御役方へ引渡、滞りなく済む」
といった文言が見られることから、実相寺への立ち寄りが確認されました。実相寺が、休憩と衣装を調える場所として利用されたのは、京都での宿泊が日蓮宗の大本山本国寺(ほんこくじ)であったことと関係があり、境内の広い本寺が利用されたことと思われます。おそらく境内にバラックが建てられ、そこでも衣冠が調えられたのでしょう。

なお朝鮮通信使の一人は、柳澤信鴻について「偽人、清秀・挙正・敬謹」(ひととなり、せいしゅうにしてきょせい・けいきん)と評し、信鴻の清楚で礼儀正しく謙虚な様子を記録しています(軍官洪景海「随槎日録」)。

通信使立ち寄りの場所には、詩画軸などの墨跡が残されているものですが、この実相寺には全く残されていません。

実相孝は江戸時代においては、貞門俳譜の祖師松永貞徳ゆかりの寺として有名でした。それは貞徳の兄が、不受不施派の総帥日奥の後を追って対馬に渡り、その地で没した教行院日陽が当寺の住持であった関係から、貞徳没後はその墓が本寺におかれたことによります。

※不受布施とは、日蓮における思想の一つで、不受とは法華信者以外の布施を受けないこと、不施とは法華信者以外の供養を施さないこと。慶長元年(1596)豊臣秀吉が大仏供養を全宗派に通達したが、これに対して法華宗は不受不施と受布施に分裂する。実相寺は妙覚寺日奥の不受布施派に連座し幕府の弾圧を受け、約50年間回復するところとならず、現在も18代以前の歴代名等は一切不明である。のち妙覚寺が身延山支配の受布施派に転向したことによって回復の糸口をみつけた。

(以上、当日のお話の一部を、実相寺のHP・正覚山実相寺縁起を参考にまとめました。)

⑥ 誓祐寺車石(時間の都合で、割愛)

⑦ 沿道民家の車石石津氏宅の車石2個。いずれも区画整理で出土したもので、六甲花嵐岩製(芦屋石)と安山岩製のもの。

安山岩製はめずらしく(これまでの車石確認数約2500個の中には1個もありません)、おそらく沿道にあった石を利用したものと思われます。

⑧ 浄禅寺(六地蔵の一つ鳥羽地蔵)ここの地蔵堂(鳥羽地蔵)は、もとは、街道の少し北の東側に位置していました(「鳥羽海道絵図)が、後世、浄禅寺に移されました。

 

車石会報11号-01

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車石会報11号-02

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車石会報11号-03

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車石会報11号-04

車石会報11号-04

 

車石会報11号-05

車石会報11号-05

 

 

 

 

 

 

 

* HPに載せるために、編集いたしました。

* 貞徳の息子の名前は、「省三」ではなく「昌三」(しょうさん)です。

Written by Gyougen

 

 

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