ドナルド・キーンの日本文学散歩

好評連載第2弾!!

戦国時代編⑤

「ドナルド・キーンの日本文学散歩」

「松永貞徳」という見出しで『週刊朝日』1974年(昭和49年)8-16号の記事を見つけたので、全文紹介してみる。

松永貞徳は、ふつう近世の文人だということになっているが、彼が人格を形成していったのは、戦国時代である。貞徳と分かちがたい戦国時代の人物としては--師である里村紹巴(じょうは)、細川幽斎、貞徳を養子にしたいと考えていた大村由己(ゆうこ)、それとライバルであった木下長嘯子(ちょうしょうし)などがいる。
貞徳は、織田信長の時代に生まれた。若いころは豊臣秀吉に写字生として仕え、覇気のない宮廷の貴族たちとともに、古典を勉強した。彼は切支丹に改宗した連中ともつき合っていたし、兄は島流しになり、弟はポルトガルと交易をしたあげく、南海で死んだ。
貞徳自身の生涯も矛盾に満ちている。生活態度や作品の好みは保守的だが、やがて自他ともに認める新しい俳諧の運動の指導者となった。彼は比較的、貧しい家の出であったために、宮廷の風習になじみきれなか,たことをひどくくやんでいたが、結局は、彼自身より低い階層の人たちの教育に没頭した。そして近世文壇の、最初の重要な人物となったのである。
貞徳は、職業連歌師であった松永永種(えいしゅ)の次男である。父方の祖父は高槻の城主であり、その祖先は、平安末期までさかのぼると、源頼朝の側について戦ったとされている。父方の祖母は、藤原定家の血をひいているといわれる。
しかし一五四一年、永種がわずか三歳のとき、父は戦死し、二年後には母も亡くなった。身寄りを失った少年は、京都の禅学の中心であった東福寺にあずけられた。永種はのち日蓮宗に改宗し、子どもたちもそのような雰囲気のなかで育てられた。
永種は二十歳前に還俗し、和歌の手ほどきをする教師として生計をたてるようになった。彼のすぐれた教養と、家族同士のつながりによって、永種は大名・細川幽斎とも親しく交わることができた。こうした父のおかげで、貞徳も幼少のころから、当時の最もすぐれた学者の教えを受けることができたのである。
貞徳は自伝「戴恩記(たいおんき)」のなかで、父についてはほとんどふれていない。しかしある一節だけは目立っている。

保守的な体質

一五七三年、貞徳が二歳のとき、京都では信長と足利義昭のそれぞれの支持者が、衝突して戦端を開いた。町の住民たちは、田舎へ逃げのびようとしていた。永種は妻および四人の子どもたちと、北へ向かった。その模様を貞徳はこう書いている。
「中にも迷惑せしは、ある山川の岩波たぎりて、かち渡り思ひもよらざるに、ただほそきひとつばし有けるを、おさなき子は右の手にてかかへ、あねの六つばかりになりしを左の手にてひき、よこざまにそろそろと渡られしを、(母が)こなたのきしより、それも子供を前うしろにいだき、見やりたれば、橋の半にて父の顔の色、下の水よりもあをくみえしと、後に母の物語有しを、いま思ひ出すに、父母の心のうち思ひやられて、かなしくこそ侍(はべ)れ」
このような異常体険が、貞徳をきわめておくびょうで、保守的な体質にしたのではなかろうか。
彼は先祖が武士であることを誇りにはしていたが、幼少時代に目撃した戦争のありさまを、のちにおそろしげに語っているし、徳川時代の平和と安定をこころから喜んでいる。
彼は幕府の恩を「山よりも高く、海よりも深い」と表現している。
これは大村由己が秀吉をほめそやしたのと同じく、おべっかだといってしまえばそれまでだが、戦国時代の混乱を生きぬいてきたものにとって、平和のありがたみは、また格別のものであったに違いない。
貞徳が六歳の とき、彼と、二歳年長の兄は、ともに仏僧になりたいといい出した。息子二人が僧侶になるのには賛成しかねた永種は、くじを作りて二人にひかせた。兄がくじを当て、すぐ日蓮宗の僧院に入門し、厳格な不受不施日蓮宗の著名な師・日奥(にちおう)についで学ぶようになった。
この兄は日奥に供をして島流しにされ、対馬で死んだ。貞徳は終生、熱心な仏教徒であった。しかし、くじ引きの一件がなかったならば彼は和歌一つ書かずに終わったに違いない。

まず連歌を習う

永種は、貞徳の早熟一な才能に気づき、そのころ堂上でもっともよく歌道の伝統を継ぐ人とされていた前関白の九条稙通(たねみち)の下で知歌を習わせた。稙通は、少年貞徳の聡明さに驚いたようである。そこで和歌の秘伝を伝授したはかりでなく、この十一歳の少年に対して「源氏物語」の奥義までも教えたのでる。いくら頭がよかったといっても、稙通がこの少年を信頼して、大切な秘伝までうちあけたというのは、ただごとではない。
しかし、この異常なほど親密だった師弟,の関係は、たしかに存在していたのであって、それは貞徳への源氏伝授を記念して天.正十年(一五八二)二月に催された連歌会における、この師弟に幽斎らを加えて巻かれた連歌百韻の中にはっきりと詠みこまれている。

花に猶みちわけそへん行衛哉    稙通
はるはかすみにひかれぬる柚  貞徳
たかとぼう すそののきぎす捨て  幽斎

この連歌は、決して上々の出来ばえとはいえない。しかしそのなかには才能に恵まれた生徒にめぐりあった師の喜び、指導を受けた門弟の感謝の気持ち、そして高名な客の少年(鷹にたとえてある)とその父親(きぎす=雉子(きじ)にたとえてある)に対する称賛が詠みこまれている。
この歌会には、大村由己も加わっている。
その当時、身分からいえばはるかに下の貞徳が稙通の下で歌の道を学びえたのは幸運であった。しかし彼が習ったことは、今日から見ると、ほとんど本質的とはいえないことがらが多い。何カ月も費やして、歴代の天皇の名前や年号の独特の読み方を暗記するなど、聞いただけでもいやになる。
しかし貞徳は少なくとも晩年に至るまで、これが学問なのだということを信じて疑わなかった。また、そのとき稙通が教えてくれた、すでに生命を失った二条派の歌風に対しても、なんら疑問を抱かなかった。
しかし貞徳は、「古今伝授」を受けない以上は、たとえ、いくらみごとな歌をつくっても、世間からは和歌の達人とは認められないことをよく承知していた。彼は「古今伝授」の継承者、細川幽斎とは、きわめて親しい間柄にあったが、貞徳のごとき生まれのものが、社会的なエリートからエリートヘと伝達されるこの文化の伝統に割りて入ろうなどというのは論外なのであった。
貞徳の父は、そのようなことをわきまえていたのであろう。どちらかといえば彼とは仲の悪かった里村紹巴に、息子をあずけて連歌を習わせたのである。紹巴の方も、礼金すら払い切れない貞徳少年を、喜んで迎え入れた。
稙通は、貞徳が連歌を習うことに反対した。ではどのようにしたら和歌がうまくなれるかと貞徳がたずねたとき、稙通は答えた。
「まず連歌を捨てよ」。貞徳はその忠告に従わなかったが、それでも彼が文芸の中で自分のもっとも得手(えて)としていたものは、明かに和歌であった。
貞徳の和歌は、単調で退屈なものだったが、彼は歌のよし悪しについては、はっきりした哲学を持っていた。和歌の価値は、オリジナルな感受性や深い感情をうたいこむことにあるのではなくて、むしろ古典的な歌学の定める約束に思案に従っているかどうかにあるということを、見抜いていたのだった。
古来の形式的な規則によって、和歌という芸術ががんじがらめに縛られてしまうことを、貞徳はべつだん気に病まなかった。ぜひとも自作の和歌の中に盛らねばならないほどの燃えるような情熱を、彼は持ち合わせていなかったからである。
一六〇三年、貞徳には十二歳も年下の重要な友ができた。それは儒学者、林羅山である。羅山は、朱子の「論語集注」をとりあげ、彼の儒学の知識を公開の講席を開いて一般に講説することを決心し、貞徳にも「徒然草」について講義してくれるよう依頼してきた。貞徳は、先人によって個人から個人にと伝授されてきた学問を、いま伝統を破って公衆の面前で公開するだけの踏み切りがつかず、初めはためらっていたが、ついに承諾した。
貞徳は持って生まれた注意深さと保守的な性格で、新しいことには手を出したくなかったのだが、このような態度も人びとの熱心さによって変えざるをえないことがよくあった。羅山との公開講座も、その一例である。
講席で、貞徳は「群衆のなかにて」「徒然草」と「百人一首」を論じた。「徒然草」も「百人一首」も徳川時代には多くの日本人にとって必須な教養になったが、貞徳の,”マスプロ講座”のころまでは、あまり顧みられていなかったのである。羅山、貞徳のこの試みは、それまで一部の階級の秘密であった中世の文化的伝統を広く大衆に開放するという重要な役割を果たした。
貞徳の行為は、伝統を墨守する貴族たちによって非難されることがはじめから目に見えていた。「徒然草」を貞徳に伝授した師、中院通勝は、怒りにふるえた。貞徳はそれに反発するどころか、かえっておのれの革命的行為を深く恥じた。しかし啓蒙家としての貞徳の将来は、このことによって確立した。後年、彼は京都の武士の子弟のために、学校を創立し、教科書を編纂した。

”市民権”得た俳諧

貞徳は和歌を教え、新進歌人の指導を職業とすることによって、かなり裕福な暮らしをしていたようである。彼は自分の第一の任務が、和歌を作ってそれに推敲(すいこう)を重ねることだと考えていたらしいが、それでも連歌を見捨ててしまったわけではなかった。真面目な、ときにはふざけた連歌を、彼はのちのちまで作り続けた。
やがて貞徳は「俳諧の連歌」の名人としての名声を得るようになる。しかし、当の貞徳はかえってこれを喜ばず、自分の作品を自慢げにひけらかすことはなかった。
彼の考えでは、俳諧は咄嵯(とっさ)の機知を競うものであり、永く記録にとどめる価値のないものなのであった。
貞徳の弟子たちが彼の「発句(ほつく)と付句(つけく)」をまとめて刊行しようと思い、貞徳に許可を求めたこともあったが、貞徳はそれを許さず、「集」などということばを、このように低俗な詩歌の場合に使うべきでないと、さとした。「犬子集(えのこ)」が世に出たあとも、貞徳はその中に自分の名を出すことを拒んだ。そのため「犬子集」のあとがきには「さる老師」が原稿に目を通した、と記されているだけである。
しかしこの本がたいへんにもてはやされたので、貞徳もそれまでの遠慮がちな自分の態度を考え直したようである。
そして、彼が好むと好まざるとにかかわらず、貞徳は俳諧の世界における、第一人者にまつりあげられてしまった。
貞徳の俳諧は、芭蕉や蕪村のそれにくらべると、とてものことに対等に比較できるようなものではない。そこには十七字の中に凝集された宇宙は感じられず、作者の生活の実感からくる魂の叫びも見当たらない。のちに俳諧の中に盛られるこのような理想は、貞徳が思いおよばぬ概念であった。
やっとのことに、俳諧は単なる遊び以上のものだと認めるようになってからでも、貞徳は、それが、人間の深遠な感情を伝えうる文学形式だとは、見ていなかった。
貞徳が彼の力を注いだのは、俳諧から野卑な要素を取り除き、もっと高級な基準を確立することであった。彼が俳諧を是認したのは、決して積極的な理由からではなかった。いまの世が「末世」なのであるから、昔の偉大な歌人が詠んだようなみごとな和歌を作ることはもはや不可能になり、それでいまの時代には俳諧の方がより適しているのだ--貞徳はそう考えていたのである。
貞徳は、人びとの目を文化的なものに向けさせ、くだらないことに熱中させないようにするには、時代の風潮からいっても、和歌よりも俳諧が適していると考えただけなのである。しかし、貞徳の俳諧は、彼の和歌と異なり、後年になるほど深みを増した。ただ、彼の俳諧の面白さは、それが次第に詩としての”市民権”を獲得していくことを貞徳が徐々に意識していく点にあるといえるだろう。
最初のうち、貞徳は俳諧を単なる遊びとして片付けていた。次に彼は俳諧を、連歌より軽い内容の形式としてしぶしぶ認めるようになった。最後には弟子からのつきあげもあって、貞徳は俳諧を、はっきりした目的のある表現手段であると規定するに至ったのである。
日本文学に対する貞徳の最大の貢献は、俳諧をだれもが真面目に考える高みにまで引き上げたことである。その当時、俳諧は和歌や連歌と違って「口にまかせていひちらす」程度のものだと考えられていたのだ。貞徳も初めのうちは、そのような時代の一般的評価と同意見であったが、次第に俳諧もりっぱな機能を果たすことを認め出したのである。

俳諧を芸術にした

貞徳が、その長い生涯の晩年に至って、ものし始めた俳諧は、単なることばの酒落や古歌への連想にふけることによって教養をひけらかす以上のものであった。しかし、そのような貞徳の俳諧も、今日では、あまりかえりみられない。
貞徳は彼自身の俳諧を真の意味における詩にまで高めることには成功しなかった。だが、もし彼が俳諧を価値ある文学の形として世人に認知させることがなく、その基本的なルールをも決めていなかったなら、芭蕉をはじめとする多くの偉大な俳人たちは、ついに俳諧をとりあげることなしに終わっていた.ことであろう。
俳諧は、宗長や山崎宗鑑の場合のように精魂こめて連歌を作ったあとのお遊びとしてとどまるか、ある.いは細川幽斎が喜んだように単なる機知と滑稽の軽みの表現ぐらいにとどまったままだったに違いない-一もし貞徳がいなければ。
貞徳は俳諧を、真面目な鑑賞に耐えうる、立派な芸術に仕立てあげた。彼自身は、あまり積極的にそれをやったわけではなかったが、戦国時代には単に詠み捨てられるものにしかすぎなかった俳諧に、かっちりした形式を与え、近世に引き継いだのだった。貞徳は、その功績によって、日本文学史の中で確固たる地位を占めているのである。
(戦国時代編おわり)
訳・牟礼  透
え・井沢 元一

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Written by Gyougen

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