Skip to content Skip to sidebar Skip to footer

山城の国絵図(安永七年(一七七八)刊)

当時の様子を絵地図から見てみようと、京都の古地図を集めています。實相寺がたっていた、山城州紀伊郡がどのように書き表されているのか非常に関心があります。

新撰 京都叢書第11巻上(古地図集)2
校正 山城国全図72.5×165糎 墨摺版
[校正山城国全図]・・・「幕末出版のもの」とあり。図下部に「諸大名様方御屋敷所書」一覧あり

幕末の古地図
幕末の古地図

 

 

 

 

 

 

 

幕末の古地図0₁

国絵図の幕末出版のもの。江戸中期に諸藩から幕府へ調進した国絵図か契機で、やがて民間各地で板行されはじめた。宝永六年(一七〇九)の河内国絵図にはじまり、矢守一彦氏によれば「板行国絵図は幕末までにすべて一〇〇余点、六十余州のうち半ば以上の国々について、一点以上、最多一国で七点が出された」という。山城の国絵図の元版は安永七年(一七七八)刊である。他より刊行が遅かったのは、都市図では三都で一番早く、洛内外に散在する観光名所や近隣の村落、街道などを描いた広域の観光図が次次と出版されていたためにさしずめ知見を充たしていたものと思われる。

img015

 

 

 

 

 

 

安永の古地図02

安永年間には京都では地誌、地図類に従来とは違った多彩な趣向のものが出現している。この国絵図をはじめ淀川水系の川絵図、伏見絵図、色刷携帯版や道中図型の巡覧折本。地誌では都名所図会、伏見鑑などが挙げられ、澎湃(ほうはい)とした物見遊山ブームがこれ等の出版を促したとみられる。

安永版の国絵図は、同一の表題と刊年で、連名書林の異なるのが三種、名称のみ出城国を山城州としたのが二種あり、安永七年刊としたままで五種以上が各年代に幕末まで繰返し出版されていた。そして幕末に至り需要増を見込み、最新情報を盛り込んだ新版の本図のほか、携帯版の「懐宝山城図」や銅版で「分見山城国細図」が刊行された。本図の図郭は安永版と同一の山城八郡で、図寸法は縮少しているが基本的には同一であるに関わらず、記載項目で政局を反映し増えている。各藩の京屋敷の図上記載とその五十九邸の一覧表、御築地内の九門名、特記すべきは「洛中石坑二十八ヶ所」である。洛内外の境界標で、元禄八年の建立だが、場所が図示されたのは始めてである(明治二年の小図にも「従是洛中之傍示」として二十六ヵ所記しているが、同四年にはこの区別が廃された)。川の舟渡しも黒楕円で明示し、淀川左岸の橋本付近に御台場や点在する古城跡、古戦場などを記号で付す。いずれも京都守護の意識が投影されていよう。帝陵を明確にし、西高瀬川と舟会所もみられる。

なお丹波国絵図は寛政十一年(一七九九)、丹後は文化十三年(一八一六)に刊行されている。一大塚隆一

實相寺 を探してみてください。

@@Written by Gyougen

Leave a comment

CAPTCHA