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實相寺と貞徳・嘯山

勝峯 晋風

あかつき起きの農民が野菜車を曳いて通る轍の響きが、かたく凍てた街道から聞えるばかりで、紅がら塗の寺門に向って佇んだまゝどうしてよいかに迷った。門をたゝき起すのも氣の毒である。と云って折角こゝまで来て引返すのも莫迦らしい。閉門した左手に垣根のまばらなところがあってそこから入って墓地へは行けさうに思へる。突然の闖入者?そんな風のいくらか氣のひけないでもなかったが、断然その垣根のまばらに透いたところから霜をふんで寺内へづかづか入った。門に閂がさゝって小門の方には新聞が一枚挟み落ちてゐる。本堂は新築してからさう年を経てゐないらしく、庫裡だけが古い建物で入口に南天をうゑて、そこがすぐ外厠である。本堂の左手に萱葺の庵がある。四ツ目垣の苔の寂びた前庭には石の井戸があって、それが「鏡の井」であるらしいので、貞徳居士の蘆の丸屋はこれにちがひない。本堂とその庵との間に小い門がある。墓地にはそれから入るより道はないやうだ。黙って閂をぬいて見咎められては甚だ不體裁である。どうしても寺に一言断ってからでなくては不可(いけ)ない。庫裡の前にたゝずんでごとごと下駄をふみならしてゐると、なかでは人が起きてみるらしい。戸をたゝくともなく咳ばらひをすると、四十がらみの女性が戸をあけてくれたので、貞徳さんのお墓はどこか、入って見て来てもよいかとたづねると、こゝろよく頷いて本堂の横にあるといって指したのが、今見て戻った蘆の丸屋の傍の小い門であった。かうして承諾をえたからはもう氣の臆するところがない。閂を引抜くととびらは開いて、三宅李流の『俳諧かれ蘆』(享和四年刊)の口繪で見覺えの貞徳居士の塋域(えいいき)であった。杉の木の高さ五尺ばかりの垣を三方に圍って、お詣りのできる一方だけには垣もなく、一間半ばかりの域内には、中央に、
南無妙法蓮華経
逍遊軒貞徳居士
承應二癸已年十一月十五日
と刻み入れて、礎石が一尺五寸程の土に、高さ五尺の墓碑が立ってゐる。居士號の下部には蓮華の型が彫刻してある。墓石には輪廓をつけ幅高く枠を取ってあるので、戒名の文字はその中に三寸大で題目と歿年月日はそれより小いこと云ふまでもない。その右には
松永昌三之墓
と、これは礎石とも三尺ばかりの低いもので、貞徳居士の長子で儒者となった尺五堂の碑である。叉、左の方には
一橐(たく)軒貞恕居士
と、昌三のと同じ位の碑で、左横に「正博三世」右横に「元禄十五壬午年三月四日」とあるので、『俳諧かれ蘆』に貞室とあるのは誤記であることが判った。正博三世とは花の本の三代のことで乾氏、重次の墓である。貞恕の歿年を寶永二年十月三日とする一説は是で訂正されねばならない。『俳諧かれ蘆』にはこの三基と三宅嘯山の碑を圖録するのみだが、今こゝに來て見ると貞恕の墓を左手へ折れて、別に
力堂貞眠之墓
とあって「享保十六季辛亥九月十一日」と歿年及び「小弟青木祖順建」と刻したものを見て、生川春明の『誹家大系圖』の祖順を貞眠の別號とする説を拒否せねばならないと思った。祖順は貞眠の弟子であることこの碑で明瞭である。貞眠は貞室の直門でなく或は貞恕の弟子かも知れない。その次には
春澄軒貞悟之墓
これにも「裏に正徳五季乙未七月卅日」及び「不肖青木貞備建」とあって、千載堂丈石の『俳諧家譜』に「曾テ聞ク重頼ガ徒ニ重榮、重方、重好、重貞等有リ、四重(ヨシゲ)ト稱シテ門弟ノ長タリ、春澄其ノ列ニ入ランコトヲ欲ス。重頼許サズ。故ニ破門シテ貞恕ニ屬ス云々」といふのが事實だとすれば、春澄軒の碑が貞恕と同一墓域に在るのも當然だけれど、再調した上でないと確言されないが、どうも春澄軒は談林派の一方の覇者であった青木春澄ではなく、或はその二世ではあるまいかと云ふ疑問が起って來た。これも俳諧史傳に於ける一収穫であらねばならぬ。この二基と向ひ合って、
花守岱(たい)年墓
がある。裏に「嘉永五壬子正月十二日歿」と見えて、大阪の晋臥鵬門で京都に居住した近代の宗匠なので、どうしてこゝへ岱年の墓をつくったのだか判斷されない。
正確に位置を指示すると貞徳を中心として昌三、貞恕の三基は東向、貞眠、貞悟の二基は北向、岱年の碑は南向であって、入口は西に向ってゐる譯である。三宅嘯山の碑は北向で貞眠と貞悟の次、東方の隅に据ゑてある。正面には
三宅嘯山先生之碣
高さ三尺五寸の全然輪廓のない石で約六寸の礎石があって文字の大きさ四寸ばかりの篆書でしたゝめてある。東即ち左横に
名月や水のしたゝる瓦葺  嘯 山
これは辞世の吟ではない。南即ち裏には嘯山の第二子で、滄々居二世となって父嘯山の建碑をした李流の
今そ自我得し佛也穴の蜂  男李 流
といふ發句を刻してある。『俳諧かれ蘆』には碑の西横即ち右に「漢文銘文三百四十餘字、婿大原呑響作并書銘文略之」とあるので、嘯山の傳記はこれまで李流編の『葎亭晝讃集附録』(文化九年刊)にある源六甫選文による外はなかった。
漸く太陽はさしそめたものゝ、そこらの土は霜が白く凍って解けず。本堂のかげではあり、その上吹き晒らしの風が冷いので、手袋を脱ぐとかぢかんで鉛筆を握ってをれないから手袋のまゝ雑記帳に嘯山の碑文を寫し取るのには不自由で仕方がなかった。それでも手袋を透して風が凍るやうに泌み入るので、しまひには蹲んで膝のうへに無感覚で鉛筆をなぐるに過ぎない。漢文だが解讀の便を思って仮名交りに譯出しよう。

三宅嘯山先生碑銘  大原翼述并書

先生三宅氏、諱ハ芳隆、字ハ之元、嘯山ハ其號、一ニ葎亭ト號シ、叉滄浪居ト稱ス。平安ノ人、其ノ先ハ巨儒観瀾、萬年ト同族ナリ。先生少ニシテ學ニ志シ、好ンデ書テ讀ミ、尤モ詩ヲ善クシ、五七絶間佳境ニ至ル。壮ニシテ望月氏テ娶ル。氏ノ祖父木節曾テ會テ芭蕉翁ニ従ツテ而シテ誹諧歌ヲ學ブ。故ヲ以ッテ其家芭蕉翁筆授ノ書多シ。先生之テ讀ミテ感悟スル所有リ。亦諧歌ヲ善クス。廼(すなわ)チ先輩ノ集中ニ就イテ其ノ萃ヲ抜キ若干首ヲ輯成シ、之ヲ品スルニ詩家ノ評語ヲ以テス。名ケテ誹諧古選ト曰ヒ以テ世ニ行ハル。其ノ書頗ル韻致(いんち)有ルヲ以テ、名四方ニ傳播シ、縉紳(しんしん)諸公ニ拖達(たたつ)ス。都鄙來リ學ブ者數百ヲ以テ計フ焉。然リト雖先生未ダ必ズシモ之テ教ヘズ。居常経ヲ講ジ史ヲ論ジ、淳々トシテ倦マズ。蓋シ先生ノ人ト爲リ質直ニシテ寡言、勢利趨ラズ、聲色ニ近ヅカズ。矜嚴自ラ持ス。或ハ花下月前杯盤狼籍ノ時ニ當ッテ、獨リ恭黙端坐スルノミ。老手ニ至ッテ巻ヲ釋カズ。旁ラ稗官(はいかん)小説ノ語ニ通ジ、譯シテ而シテ梓行(しこう)スル者数種、維レ其ノ博渉ノ餘事ト云フ。享保二年三月廿五日ヲ以テ生レ、享和元年四月十四日卒ス。享年八十四、内野立本寺ニ葬ル。先生二男二女ヲ生ム。長子家ヲ嗣ギテ先ッテ卒ス。季女早ク夭ス。今唯一男一女ノミ。女ハ即チ余が室也。門人相議シテ落歯ヲ鳥羽實相精舎ニ埋メ、以テ石ヲ建ツ焉。余其ノ行跡ヲ述ベ、且ツ之ニ銘ス。其ノ辭ニ曰ク
儒歟隱歟    将滑稽歟
外勤内靜    處世澹如

漢文で八行に謹厚の楷書を以て書いてある。嘯山の同族観瀾は水戸藩に抱へられて彰考館に勤め、その兄の萬年即ち石庵は大阪の懐徳書院の祭酒で、ともに三宅氏を名乗ってゐるが、同族といふだけで血統上の関係は判明しない。嘯山の舅は望月疎竹といふ人で、その父は芭蕉の門人で臨終の脈を取つた大津の醫師木節であるが、その著『木瓜』もまだ發見されない位で、もし嘯山が詳記して置いてくれたら、随分参考となる資料もある筈だ。がさうした記録は傳はらない。『俳諧古選』は、寶暦十年の選で同十三年刊行され、明治の俳句界にも鑑賞批評に就いて寄興した點が尠少(せんしょう)でなかった。太祇と共編の『俳諧新選』はこれに次いで嘯山の名を高めたのであるが、『俳諧獨喰』となると活字本がない爲めかあまり知る人がない。「稗官(はいかん)小説ノ語ニ通ジ」とあるのは寶暦九年板の『通俗醉菩提』と題した唐本小説及び天明七年板の『宿直文』(和漢嘉語)の事をさしてゐるので嘯山の餘技的な譯筆であった。立本寺は京都北野にある日蓮宗の本山で嘯山の遺骸はその寺内に埋葬されてゐる。男子二人の長は柏亭三宅如洋で天明四年板の『鳥の音』の序文を書いてゐるが、「先ッテ卒す」とある如く嘯山生前に故人となり、次は李流で友干亭と號したが父の滄浪居を嗣いで二世を稱した此の碑の建設者である。女子の一人は「余ガ室也」とあるやうに大原呑響に嫁し、呑響は後松前藩に仕へて有名な書家蠣崎波響はその門より出たのであった。
嘯山の碑文を寫して再び『蘆の丸屋』の前に戻る。硝子張の格子戸がその隅についてゐるので、現に誰か住む人があるらしく、庭の中へ入るの憚られたが、石の枠の井戸があるので『俳諧かれ蘆』に
鏡の井は近頃浪華なる何某の妻爰に世をがれて
住る時井をほりてければ、日野從一位資枝卿より
銘をたまひし御歌に、
事しげきうきをのがれてこゝろすむ
かゞみの井戸は干世も汲らし
さうした由緒のあるもので、枝折戸のうちの一株のつゝじの葉の霜に萎えたあたりに、

松永貞徳あしのまろや

かういふ標石があって「此丸やの頽圮(たいひ)を歎きて寺主上野日隨と謀り修理を加ふと云爾、明治十八年、輟耕吟社」の添石があり、その裏に村岡耕堂外七名の寄特者の名が彫入れてあった。
庫裡へ再び聲を掛けて挨拶して行くつもりのところ、住職が出て來られた。相憎名刺を持たなかったので、本名を名乗るとこちらへ上れと云ふ。大分寒いおもひをしたから火鉢で凍えた手をあたゝめさせて貰うつもりで、新築の木の香のたゞよふ立派な座敷へ通された。私の名を承知されて來訪の目的も察しられたやうで、病児の看護にゆうべから一睡もしないと云はれやゝ疲労の顔色であるにもかゝはらず、寺什の貞徳居士に關するもの一切を持って來て見せられた。住職四方行隆師はこの實相寺の五十七代ださうで、不受不施派が幕府當局から弾圧されたので、この寺も衰頽した時代があって古記録も散失したので貞徳とどういふ交渉があったものやら、貞徳時代の住職の名も知れないさうである。幸ひ現存するものとしては第一が貞徳居士の畫像で、紙本の竪が三尺五寸、横が一尺五寸、頭髪を唐輪に結って、上品な顔立の老人で、手にたづさへた一本の蓮花は金泥でぴかぴかしており、皮膚は肉食で、袴は胡粉を塗って純白だ。その畫姿に
逍遊軒貞徳居士肖像    八十三歳
つゆのいのち消えるころもの玉くしけ
ふたゝびうけぬみのりならなむ
承應二癸巳年十一月十五日
と題してあるから歿後に描いたものに相違なく、落款で見ると遺弟宮川正由筆である。今でも表装はいたんでゐるが、それでも延享二年十二月立本寺の日深上人がこゝに隠居した時、竹越岐山といふ俳人がこれを修覆したことが裏に書いてあった。貞徳の手紙が一通ある。竪一尺、横一尺五寸、早卒に讀み下したのであるが、

口上、
夜前之名月宵の雨晴
て一入清朗に候つるよし承候。
いつ方へそ御出候つるや御内ニ御
らん候や、兎角御哥新出
來候刻引付書留申候、
叉詠草懸御目ニ候事肝顔
なから御乞候まゝ
晴ぬまの光やためて雨の後に
てらす今宵の月そ
さやけき
叉廿一日ニハ頓世老ニ而可申承候、
必御出御座候て被成候、恐惶謹言
八月十六日  長頭丸報
大黒作右衛門様
まいる

いつの時代のものか、長頭丸とあるので晩年の消息らしい。一體貞徳を實相寺に葬ったことは北村季吟の『菟藝泥赴』(貞享元年稿)の第四に「承應三年霜月十五日九十餘歳にてうせぬ、鳥羽の實相寺に葬れり」とあるし、同書第八には「鳥羽に實相寺とて妙覺寺の末寺なるが逍遊軒貞徳菩提所にて其子昌三もこゝにおさめて墓有」とあるので疑ひないが、享年は肖像の八十三歳に對して異説である。實相寺に傳はる廣澤長好の詠草切には

しも月もちの日老師なくな
り給けるに 兼友
秋ならぬ月もなかはの雲かくれ
世にミつる名のひかり計に
その夜鳥羽実相寺の松陰に
おさめ侍し時日比は今一たひと神
のたすけなと心に念しける事
もおもひ出て
行きや終にちとせの花ならて
なき身よまつのねにかへれとハ
辞世のうたうちすして猶あハれ
にたへす
まほろしにみゆる衣のうらみても
□□□さためぬ玉そかなしき

缺字は裂損して全く讀めない個所である。貞徳が實際こゝへ葬られたのはこの詠草切れだけでも信じられる。併し『蘆の丸屋』は妙法院御門主から給はつた三十三間堂の南西に吟花廊をつくり「傍に芦の丸屋とて曾所をたてゝ三月十八日人丸の忌日、八月二十日は定家卿と玄旨法印の忌月とて和歌の會を興行せり」と季吟も書いてゐるので、最初からこゝにあった譯でない。いつ誰が引移したのであるか知れないのは残念である。
貞徳が空海の筆意に擬した一巻は稀観のもので、嘯山の漢文添書によると白氏の楽府を寫したものゝ如く
長頭翁ノ書白氏楽府也。其ノ筆意僧空海ヲ似セ摸シテ、而  シテ渾厚愛ス可キ也。惜イ哉脱落スル者頗ル多シ矣。余之  ヲ補ハント欲シ、細カニ閲ミスルニ則チ篇々混淆シテ敢テ  手テ措キ難シ。今但ダ上陽人ノ末段九十三字ヲ書シテ以テ  附ス焉。董蕕ノ類セザルヲ慙(はじ)ルノミ。因ッテ併セ  テ数語テ加フ。
天明三年癸卯春二月下浣
平安後學嘯山謹誌
こゝにはたゞ嘯山の文を抄するに止めておく。
貞徳が吟花廊に「法華経干部を安置して報恩藏と名づく」と季吟の記せるその千部の一本が、實相寺にもあって『趙子昻筆長頭丸法華経』の外題は後人の書いたもので、本文は楷書體の木版で
妙法蓮華経      巻一
姚奏三藏法師鳩摩羅什奉詔譯
右巻一より巻七に至る折本仕立である。貞徳の發願文も板に起して奥附のところに附載されてゐる。
奉納報恩藏干部之内也
これは人丸、赤人を始たてまつり、萬の歌仙は申に及ば  ず過去現在未來の歌よみ連歌俳諧に至まで、此敷島の道に  心をよする一切の貴賎上下道俗男女、殊には麿が御恩を蒙  りし尊師達の御菩提皆具成佛の御爲也。
南無三寶諸天善神
慶安三稔庚寅正月廿八日     長頭丸敬白
併しこれを以て貞徳の報恩藏は慶安三年の發企と即断してはならぬ。北田彦三郎氏所藏の貞徳自筆には
されば大佛と三十三間の南なる別業の地に花菓多き樹木を  うへ、そこを柿園となづけ、其内に妙譯八千巻を納たてま  つり、其みくらを報恩藏となつけしめん
とあって諸人の助力を求める趣を記し、終りに「慶安元初冬吉日、長頭丸」とあるから、最初は八千巻を収藏するのが本願で、これより三年前に發企したのである。何かの事情でそれが千部と限られ然も確かに實現されたのであった。
寺什を一通り見終ってから四方住職の案内で本堂に赴き、暗い内陣に燈燭を灯して貞徳の木像を拝見したが、胡粉塗りの大體は畫像を手本として後の佛師が彫り且つ仕上げたものであるらしい。もとの座敷へ戻って柿園、歌仙、吟花廊の三額の摹寫を見せて貰った。「右三額は竹内宮良尚親王御筆のヨシ」とあり、「蔓珠院宮ナリ」とも註して朱ですき寫しにしたものであつた。蘆の丸屋の額は
貞徳翁蘆丸屋石川丈山書額奇古有、實相寺近歳是不見今具  足山立本寺日深上人此寺閑居成、仍新寫之予彫之令奉納者  也
施主 洛 竹越 甚兵衛
梅か香や鴬來啼鳥羽縄手 俳名 岐 山
天明貳年寅初春
と額裏に書いてあって柿園の額と共に二枚保存してあった。
二月二日早暁京都驛に下車した私はすぐ大津に向ふ用件があったが、あんまり早過ぎるので、驛前のタクシーに鳥羽へ行く道のりを聞いて、ふっと實相寺行をおもひ立つたのである。さうしてこれだけの採訪をよろこんで、京都驛へ引返したのはその日の午前十時であったから、旅行中の時間利用策として甚だ有意義であった事を思った。
嘯山の貞徳観は『俳諧古選』の簡潔な評語に盡きてゐる。曰く翁、武ヲ出テ文ニ入ル。俳道ヲ以テ自ラ任ズ。始テ軌則ヲ定メ、後世之ニ依頼ス。一ニ出入スル者ト雖、要ハ其範圍ヲ逾ルコト能ハズ。且ツ昌三ヲ以テ子ト爲シ、羅山、艸山門人爲リ。於(ああ)盛ナル哉。
この翁は貞徳を稱したので、充分の敬意を表してはゐるけれど、俳諧は貞徳の傳系に属しなかった。古人では鬼貫の奇想を好み、今人では太祇と同調で『平安二十歌仙』(明和六年刊)を共著した。從って貞徳の菩提所實相寺に落歯を埋めて、同一墳域に建碑したのは法華経信者たる心契があった爲めであらう。私も法華経の熱心ではないが檀家である。昭和八年二月實相寺に赴き此の文を草して、『旅と傳説』に寄稿したが、更に黄橙誌友の一讀を仰ぐ可く魯魚の誤りを訂してこゝに再録する。

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(『黄橙』7月号 (第5巻第3号) 昭和9年7月10日発行 に掲載)

(**)HPに掲載するにあたり、一部修正を加えております。

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