松永貞徳について

『松永貞徳と烏丸光弘』 高梨素子 著(笠間書院)を読んでいたら、次のようなエッセイに出会った。

松永貞徳について簡潔に書かれているので、ここに載せてみる。

松永貞徳と烏丸光弘

松永貞徳と烏丸光弘

 

 

 

 

 

 

 

【付録エッセイ】
江戸時代の和歌と歌人』(同朋舎 1991年)
松永 貞徳              宗政 五十緒
宗政五十緒(むねまさ いそお)(国文学者)(1929-2003)『西鶴の研究』。

松永貞徳(まつながていとく)(1571~1653)は江戸初期に活躍した京都の和学者である。彼は和学(日本古典学)、和歌を研究し、私塾を起こし、多くの人々を教育した啓蒙的文化指導者であった。彼は近世の地下(庶民)の歌学の祖と称せられる人である。と同時に、和歌、狂歌、連歌、俳諧の実作者でもあり、かつ指導者でもあった。

松永貞徳の祖父は入江政重(まさしげ)といい、摂津国(せっつのくに)、高槻(たかつき)の城主であった。その妻は公家の冷泉(くげのれいぜい)家(下冷泉家と呼ばれた家)の出で、江戸初期第一の儒学者、藤原惺窩(ふじわらせいか)の伯祖母にあたる人である。そのような、地方の有力武士の家柄であったが、父の永種(えいしゅ)のときには没落して、京都の市中に住んで連歌師となった。母は妙重(みょうちょう)という。貞徳はその第三子で、次男であった。彼は元亀(げんき)2年に京都の下京(しもぎょう)で生まれたが、この時期は戦国時代のさなかで、足利(あしかが)将軍家は足利義昭のときであった。しかし、その2年後の天正元年には、この義昭を擁立していた織田信長と、義昭との仲が不和になって、義昭は退けられた。この時点で室町時代は終焉(しゅうえん)するのである。
貞徳の本姓は藤原である。氏は祖父までは入江であったが、父が曽祖母松永妙精に育てられたので、松永と改めた。妙精は当時勢力のあった松永久秀(ひさひで)の伯祖母にあたる人である。貞徳は幼名を勝熊(かつくま)という。逍遊軒(しょうゆうけん)、長頭丸(ちょうずまる)、延陀丸(えんだまる)、保童坊、松友、明心(みょうしん)居士などの号があり、また、その居住の土地から五条の翁(おきな)、花咲(はなさき)の翁などとも号した。
彼は幼年より父永種に学問を授けられたが、12歳のときにはすでに玖山(きゅうざん)公、九条植通(たねみち)から『源氏物語』の秘事の皆伝を受けていて、早くから和学の才能があった。この植通から貞徳は和学と和歌を学んだのである。植通が薨去(こうきょ)したので貞徳はその後は主として細川幽斎に就いて和歌を学ぶとともに、彼に従って諸処へ行き、彼に寵遇(ちょうぐう)された。また、連歌の師の里村紹巴(じょうは)にも愛されて、紹巴が出席する連歌の一流の会には必ず連衆として加えられ、のみならず、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の連歌の会には執筆(しゅひつ)となって、桃山期の武家文化人とも交渉をもった。その他、今出川(いまでがわ)(菊亭(きくてい))晴季(はるすえ)、中院通勝(なかのいんみちかつ)、飛鳥井雅春(あすかいまさはる)、飛鳥井雅庸(まさつね)らの公家(くげ)や清水宗我(そうが)、城勝検校(じょうしょうけんぎょう)、庵休(あんきゅう)法師ら50人余りに就いて古典学の指導を受けた。
貞徳の家は永種のときから下京の三条衣(ころも)の棚(たな)にあったが、彼の晩年76歳のときに五条稲荷(いなり)町の地を、彼の門人が謝礼として提供したので、ここに移り住んだ。この土地には昔、稲荷の社(やしろ)があって、その神の託宣でこの地を花咲と呼んだということを貞徳は知り、邸内に稲荷社をあらためて建立し、これを花咲稲荷と称し、また、彼の家も花咲の宿と呼び、彼自身も花咲の翁と号したのである。また、晩年には鴨(かも)川の東の、方広寺の大仏殿の南に、妙法院宮尭然(みょうほういんのみやぎょうねん)法親王から土地を与えられ、慶安3年ここに別荘を造り、柿や桃の木を植えてここを柿園(かきぞの)と称し、数寄をこらした建物を建てた。ここで彼は歌会を開催した。その会所を蘆の丸屋(あしのまろや)と名づける。そうしたことから知られるように、彼は多数の弟子をもち、老年に至るとかなり富裕な生活をしていたのである。彼は『つれづれ草』や『小倉(おぐら)百人一首』をはじめとして多くの古典を庶民層の人々に教授し、それまでは公家を中心とした社会上層の知識人の占有するところであった日本の古典を、公開講座を開催するなどの講義をして、民衆が享受しうるように啓蒙(けいもう)したのである。古典注釈の著書として『徒然草(つれづれぐさ)長頭丸抄』、『徒然草慰草(なぐさみぐさ)』、『百人一首抄』、『和句解(かい)』、『堀川(ほりかわ)百首肝要抄』そのほかがある。
また、彼は歌人として歌を詠み、家集に『逍遊愚抄』があり、また『貞徳自歌合(じうたあわせ)』がある。さらに、彼は和歌の一体である狂歌をもよくし、これの家集として『貞徳百首』がある。和学、和歌の弟子には加藤盤斎(かとうばんさい)、望月長好(もちづきちょうこう)、和田以悦、木瀬三之(このせさんし)、北村季吟(きぎん)などが知られ、彼ら門人たちの指導によって、和学、和歌は更に庶民に広まってゆくのである。
貞徳は、彼の学んだ和学、歌道について『戴恩(たいおん)記』(歌林雑話集)なる一書を著している。この書で彼は、たとえば、師からの伝授のない人は、歌書を読んでも、清音と濁音との区別がつかず、文章の句がどこで切れるかもわからず、仮名の読み方(”てんわう”と書いて”テンノウ”と読むような読み方)も知らず、促音(そくおん)、撥音(はつおん)の読み方も知らないなど滑稽(こっけい)な有様であるなどと説き、師と、師からの伝授がいかに大切であるかを述べて、彼の学んだ幽斎、通勝、紹巴などの歌人、連歌師たちに言及している。また彼自身の和学観、和歌観をも記している。
なお、彼はすぐれた多くの師に就いて学んだのみならず、当時一流の文学者とも親しく交しわっている。そのなかには林羅山(らざん)や木下長嘯子(ちょうしょうし)もいる。
一方、貞徳は俳諧(はいかい)作者でもあり、その指導者でもある。しかし、彼の本領は和学研究者、歌人であったから、その俳諧活動の今日知られるものは40歳ごろからである。彼が指導した俳諧は貞門俳諧と称せられ、江戸初期俳諧の中心である。貞徳の撰(せん)である『御傘(ごさん)』、『淀(よど)川』、『油糟(あぶらかす)』の三書は、これを後世「貞徳三部書」と称され、貞門の基本的俳書となっている。俳諧にも多くの弟子があって、そのなかでも野々口立圃(りゅうほ)、松江重頼(しげより)、山本西武(さいむ)、鶏冠(かえで)井令徳(いりょうとく)、安原貞室、北村季吟、高瀬梅盛(ばいせい)は七俳仙(はいせん)と称せられている。
貞徳は承応(じょうおう)2年11月15日、83歳で京都に没した。辞世の歌は「露の命(いのち)きゆる衣(ころも)の玉くしげふたたびうけぬ御法(みのり)なるらむ」である。その墓は京都の南、上鳥羽(かみとば)にある日蓮(にちれん)宗の実相寺(じっそうじ)に今日も残っている。墓面には「逍遊軒貞徳居士」と刻されている。彼のあとは実子、尺五(せきご)(昌三(しょうさん))が継いだ。昌三は漢学者として一家をなし、この家は漢学塾(じゅく)として明治まで続いた。

〔参考書〕
小高敏郎著『松永貞徳の研究』(1953、至文堂刊)。『松永貞徳の研究-続篇-』(1956、同)が最も詳しく、かつ最も優れた研究である。なお、前書には「従来の貞徳伝研究」なる一章がある。貞徳自身の書いた伝記資料では『戴恩記』があり、これは「続群書類従」その他の叢書類に校訂本が収録されているが、岩波書店刊「日本古典文学大系」第95巻の『戴恩記・折たく柴の記・蘭学事始』に収載の校注本は小高敏郎の担当で、すぐれている。

小高敏郎著『松永貞徳の研究』(1953、至文堂刊)。『松永貞徳の研究-続篇-』(1956、同)は、臨川書店より復刻 ・再版されています。

Written by Gyougen

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