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第七次(天和二)朝鮮通信使

洪 禹載・著   若松 實・譯(発行所:日朝協会愛知県連合会)
東 槎 録     江戸時代第七次(天和二)朝鮮通信使の記録

 

作成年(西暦)  1682年
年号 天和二年
文章カテゴリ  江戸時代第七次(天和二)朝鮮通信使の記録
執筆者 洪 禹載・著
宛先
備考 若松 實・譯(発行所:日朝協会愛知県連合会)

五十六頁
三日晴。巳の刻(午前十時)に淀浦から上陸し、使臣は屋根のある駕篭に乗り、三堂上と製述官・良医は担ぎ駕篭に乗り、上官から下官に至るまでは馬に乗った。

儀杖隊が先頭に立ち三使臣が順次先に行き、随行役員と譯官たちが陪行して後に従った。正午に正覚山實相寺に至り公服に身を整え未の刻(午後二時)末に倭京(京都)に至り本国寺で旅装を解いた。寺舎は素晴らしく広大で一萬人も収容できるほどで、仏殿も華麗で木閣が翡翠色であった。五層の高い樓台から京都を見下ろすと、沃野が千里にも及んでおり幽邃な景色が様々であった。上官以下調理された食べ物を受けたが、三使臣と三堂上は出発の時に受けた(正・副使が私忌があるためである)。
西京尹(京都所司代)稲葉丹後太守越智公が人を送って安否を尋ね、対馬島主もまた人を送って見舞った(越智公は京都の留守居役で食禄十五萬石である)。使臣が乗った駕篭を担ぐ人足と従う者は殆ど五十名にもなり、先導する倭人が各二名、検査して取り締まる検禁倭が各一名ずつであり、三堂上以下の駕篭舁きも或るいは各々十二名、十六名、二十名ずつにもなった。各村の富裕と貧しさに従って徴発したという。しかし其の首領になった者が賄賂を受け取り其の数字を減じてやる弊害が無きにしも非ずという。鞍馬が後に付いて来ており、時々馬を乗り換えて自ら楽なようにした。上官に従う者で雨具を持ち煙草を進める者が或るいは七・八名、或るいは十名にもなって、首領がいて此れを取り締まり、中官は両側に五・六名を率い、下官の場合は馬に乗って荷物を積んで馬を引く者までを入れても二・三名に過ぎなかった。随行員中に病気が起こり駕篭を求めると、たとえ乗るを許されても継続して毎日乗ることは出来ぬようになっており、判事安愼徽と進士李聘齢は帰る時特別に駕篭に乗るようにしてくれたが、彼等の厚意を見ることが出来る。

 

第七次(天和二)朝鮮通信使

 

 


2012.07.22 住職筆

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