Skip to content Skip to sidebar Skip to footer

第11次(明和元年)朝鮮通信使の記録

趙   曮・著   若松 實・譯
海槎日記<日記篇>
江戸時代第十一次(宝暦・明和)朝鮮通信使の記録

作成年(西暦)  1764年
年号 明和元年
文章カテゴリ  江戸時代第11次(明和元年)朝鮮通信使の記録
執筆者 趙   曮・著
宛先
備考 若松 實・譯(発行所:日朝協会愛知県連合会)

 

一四七頁
馬の鞍に金と絹で装飾したのも既に言うべきほどでないが、馬の腹を風呂敷で覆い泥土を防ぐのと、馬の尻に布団を敷いて雨を避けるのは尤も不可思議なことである。
一里半行って実相寺に到着し暫く入って行き紅團領に着替え、員役は官服、軍官は戎服(軍服)に着替えた。其れは正に西京に入って行くためであった。
站官が杉重一箱を差し出したが関白の贈り物という。我が国の人と駕籠舁き達に分けてやり、駕籠舁き達の労苦が余りにも多いので餅と果物を持って出発し、各站毎の途中で一・二度ずつ分け与えた。後でも継続して此のようにした。
続いて西京に向かった。京都に入って行く途中に層閣の門前を通過したが、取り巻いている城壁の垣が半里もあって五重の塔閣は中空に遥かに聳えていた。聞くに大きな寺刹であった。此処からは民家が櫛比していてぐるぐる回って行った。人工の緻密なことと衣服の美しくきらめく様は大坂に比べてなお優れているようであるが、市街や店舗は生活などが少し劣るようであった。
半里余り行って東北に折れ曲がって初めて舘所に入った。舘所は即ち本国寺で山城州の所属だが、建物の豪華と景色が見るべきほどのことが大坂城の本願寺の比でなかった。前には五重の塔閣が有って沿道で見たのと規模や形態が余りにも同じなので、人々は或るいは一つの塔はでないかと疑ったが実際は一つでなく二つであった。此の日本の国は専ら仏道を崇敬するので其の財力を寺に消耗するのも当然な事であった。

第11次(明和元年)朝鮮通信使の記録

2012.07.23 住職筆

<<目次戻る


▼詳細な記録データをご希望の方

・当山では、詳細なデータを管理しております。詳細データをご希望の方は、問い合わせページよりご連絡ください。

Leave a comment

CAPTCHA