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貞徳先生の旧跡を歩く

同人誌『ヒッポ千番地』より紀行文(=貞徳先生の旧跡を歩く)を載せる。

貞徳先生の旧跡を歩く

 飯塚 ゑ子

@@ ありたつたひとりたつたる今年哉   貞徳

@@くるくるとまはりて見るや藤かづら  貞徳

@@和歌に師匠なき鶯と蛙哉       貞徳

松尾芭蕉より70年ほど先立つ1571年大阪高槻に生まれ、京都を中心に活躍した俳諧の祖、松永貞徳の遺跡を4ヶ所歩いてみた。

◆私塾の跡・・三条衣棚

1615年、貞徳44歳の頃に自宅で私塾を開き、その後約20年間にわたって庶民の子弟の教育に当たった。その地、三条衣棚町を訪ねてみた。地下鉄烏丸御池駅を降り、烏丸通を少し西に入ったところ。今も昔も京都の中心地といえるだろう。古い町家は少なく、貞徳私塾の跡を示すものは見あたらなかった。あたりは民家や商店、事務所、小料理屋などが建っているごく普通の京都の町筋である。出会った路地の住人も「貞徳? そんな人知らないです」との返事があるのみで、この地での貞徳は今やすっかり忘れ去られた人のようである。

◆隠居の跡・・五条花咲の宿

60歳を過ぎて貞徳は、命の期限に達し生まれ変わったとし、寿齢1歳として数え始め姿も童の形に改め、号も長頭丸などと変え、五条稲荷町の花咲の宿、今の下京区間之町通松原上ルに移り住んだ。私塾をやめ、楽隠居の生活で、「五条の翁」や「花咲の翁」と呼ばれ、和歌や俳諧を作り門人の指導に当たったいう。この花咲亭の跡には、いま花咲稲荷があり、その前には「松永貞徳花咲亭跡」と書かれた碑が建っている。今の京都の中心地四条烏丸にほど近く、近隣にはホテル日航プリンセス京都や仏光寺がある。

◆悠々自適の跡・・柿園

1647年、貞徳は77歳のころ、三十三間堂の東南、今の東山区今熊野本池田町、JR京都駅の東、京阪東福寺駅の北に移り住んだ。柿の木にちなんで柿園と呼ばれたが、茶室「芦の丸屋」を建て、柿本人麻呂や藤原定家の忌日には大がかりな歌会を開いたり、またある年には盛大な俳諧興行を行ったり、亡くなるまでの七年間を風流な生活をして過ごしたと伝えられている。芦の丸屋は貞徳死後、上烏羽の実相寺に移築され、柿園の跡は今は住宅やマンション、学校などが建ち並ぶ一帯になっている。京都市立一橋小学校校庭の片隅に、「松永貞徳柿園の跡」と彫られた小さな石の碑と供養塔2基が鉄柵の中で守られていた。「このあたりは柿園の図子(路地の意)と呼ばれ、貞徳が柿の木を植えて楽しんだ地。大正初年に校地が拡張して図子が消滅した」という意味の昭和42年8月付の説明が石に彫られてあった(写真)。碑の横には柿園の子孫と思われる2本の柿の木が植えられてある。実った柿は生徒たちに配られるという。この碑の場所を教えてくれたPTA役員の方のお話では、毎年貞徳の命日に供養塔の前で、近くの泉涌寺の僧侶にお経をあげてもらっているとのことだ。付近はJRの東山トンネルが近く、ほかに往時を偲ぶものはないが、南側の高台にある悲田院からこの辺りを眺めると、東山の山裾に位置していて、鉄道が敷かれるまでは木々が多く柿の木も多かったのだろうと想像できた。

◆終焉の地・・上鳥羽実相寺

貞徳の墓が京都市南区鍋ヶ淵町の実相寺にあるというので、まだ寒い頃訪ねた。

昨年末にオープンしたばかりの新しい駅舎の近鉄上鳥羽口駅を降りる。この駅から真っ直ぐ西へ向かうと、広い駐車場のある観光バス会社や銀行の事務センターなどが立ち並ぶ業務地帯である。所々キャベツ畑や葱畑も残る中を飾りけのない道路が延びている。しばらく行くと昔ながらの町並みとなり、上鳥羽小学校が見える。

鳥羽という地は平安京の南に位置し、鴨川に接した風光明媚な土地であったらしく、白河・鳥羽両上皇によって造営された東西一キロ半、南北一キロの規模の鳥羽離宮があったという。当時そこには数個の中島が浮かぶ池があり、華麗な堂塔が建ち並んでいた。

@@@鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉   蕪村

さらに進むと西高瀬川の穏やかな流れに視界が開け、京都の町中を遠望することができる。上流には羅城門跡があり、歴史を背負っている土地柄が感じられる。土手を南へ下ると実相寺があった。

寺の境内奥に墓地があり、花岡岩のひときわ丈高い貞徳の墓、「逍遊軒貞徳居士」と刻まれてある。貞徳の葬られた実相寺は、創建が南北朝にさかのぼる古い寺で、秀吉家康の頃寺勢が衰えていたが、江戸時代寛永年間に松永貞徳の兄が住持となり、以後貞徳ゆかりの寺として知られるようになった。貞徳の墓の周囲には、息子松永昌三ら貞徳ゆかりの人々の小ぶりの墓が寄り添うように建っている。またそばには貞徳より150年後の京の文人学者三宅嘯山の句碑があった。

@@@名月や水のしたたる瓦葺    嘯山

@実相寺境内には貞徳死後柿園から移築されたと伝えられた茶室「芦の丸屋」が10年程前まで建っていたという。今は建物跡の土台や踏み石が残るのみである。たまたま出会った出入りの石屋さんから残すか取り壊すか当時議論されたと聞いたが、研究によると柿園から移築されたものは早くに倒れ、最近まであったのは別の建物だつたそうだ。

@お寺の方から、ここには貞徳ゆかりの資料が保存されており、以前日本文学研究で有名なドナルド・キーン氏も来られたことがあり、スケッチなどして帰られたという話も聞けた。後日、同人の皆さんと再訪した折、現住職から肖像画など貴重な品々を見せていただき、貞徳先生がとても身近に感じられた。

今は京都の観光地から少しはずれているので取り残されたようになっているが、鳥羽は白河上皇の時代から幕末鳥羽伏見の戦いまで、政治でも文芸でも多くの人が、また研究者や俳跡の探訪者たちが、どれほど行き来してきた土地であろうかと思わずにはいられない。歴史が重なっていることに気づかず、何気なく通り過ぎてしまうような土地となっていることが、惜しいような気がする。
@@@山城の実相庵の風さびて    信徳

貞徳先生の旧跡を歩く01
貞徳先生の旧跡を歩く01

 

貞徳先生の旧跡を歩く02
貞徳先生の旧跡を歩く02

 

HPに載せるに当たって、編集いたしました。

Written by Gyougen

 

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